羽生善治

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Template:Infobox 将棋棋士 羽生 善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、将棋棋士二上達也九段門下。棋士番号は175。身長172cm。

通算タイトル獲得数は、大山康晴に次ぎ歴代2位。全7タイトルのうち竜王を除く6つで永世称号(永世名人(十九世名人)・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世棋聖・永世王将)の資格を保持する史上初<ref>タイトル戦が7つになってからの「永世六冠」は羽生が初めて。なお、タイトル戦が5つの時代には大山康晴が「永世五冠」を達成している。</ref>の棋士(俗に「永世六冠」と呼ばれる)。

埼玉県所沢市若松町生まれ、東京都八王子市育ち。東京都立富士森高等学校を経て、東京都立上野高校卒業。

なお、羽生とほぼ同じ年齢にトップクラスの実力者が集中しており、彼らは「羽生世代」と呼ばれる。

目次

プロデビューまでの来歴

小学校1年生で将棋を覚え、2年生の頃から八王子の将棋道場(八王子将棋クラブ)に通うようになる(親が買い物をするとき、託児所的に将棋道場を利用したということもある)。通い始めた当初、通常は8級からスタートする所を、その実力から道場の席主から与えられた段級は15級であった。これは昇級の楽しみを与えるためであった<ref>Template:Cite web</ref>。その後、棋力は急速に向上していき、翌年の小学3年のときに初段、さらに、4年のときに四段、5年で五段となり、アマ強豪のレベルとなる。子供の頃から将棋が家族内であまりにも強すぎたために、家族が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して、それまで家族が指していた劣勢な側を善治が、それまで善治が指していた優勢な側を家族が指し継ぐという家族内ルールが存在した<ref>NHK『クイズ日本人の質問』インタビュー</ref>。

5年生の頃から、関東各地の子供将棋大会を総なめにする。母親が我が子を見つけ易くするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽を被らせていて、周囲からは「恐怖の赤ヘル」と恐れられていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)<ref>田中寅彦 『羽生善治 神様が愛した青年』ベストセラーズ、1996年。ISBN 978-4584191286。</ref>。

関東各地の子供将棋大会で森内俊之と知り合い、この頃からライバル関係となる。ある将棋大会で、先手・森内の初手▲5八飛に対して後手の羽生が△5二飛、という珍しい出だしの将棋があった<ref>「佐藤康光&森内俊之のなんでもアタック」『将棋マガジン』1996年6月号。</ref>。

1982年、数々のプロ棋士を輩出している小学生大会である小学生将棋名人戦に6年生(出場時は5年生)として出場し、優勝。このとき森内は3位、NHKテレビ解説者は当時19歳の谷川浩司だった。

小学生将棋名人戦での優勝後、奨励会入り。1年余で6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段(後述)を重ね、1985年12月18日に三段での13勝4敗を記録。この成績をもって、当時の規定<ref name="sandan">当時は、三段リーグの制度がなかった。</ref>により四段に昇段し、加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となる。

戦績

末尾の年表 も参照。

デビュー、そしてスターダムへ

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デビューから年度が明けての1986年度に、全棋士中1位の勝率0.741(40勝14敗)を記録し、将棋大賞の新人賞を受賞する。羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド」<ref>島朗による命名。</ref>と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進む。

羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の1988年度のNHK杯戦である。大山康晴(3回戦)、加藤一二三(4回戦 = 準々決勝)、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、当時現役の名人経験者4人をすべて破って優勝。まるで作ったかのような舞台設定で<ref>谷川浩司は、「(羽生が)持って生まれた運」と表現している(『別冊宝島380 将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社別冊宝島〉、1998年。ISBN 978-4796693806 pp.16)。</ref>、多くの将棋ファンに羽生という棋士の存在を強烈に印象付けた。特に対・加藤戦の終盤61手目に加藤陣に打った妙手▲5二銀(右図は1手前の局面。打った銀を飛車で取っても金で取っても加藤の玉が詰む)には、解説役で出演していた米長邦雄も驚嘆していた<ref>後に加藤はこの対局について、「▲5二銀自体は奨励会員でも指せる」と述べているが、中盤戦で攻められている側に玉将を上がった▲4八玉を高く評価している(『将棋世界』2007年11月号102ページ、「加藤一二三九段、1000敗を語る」)。</ref>。加藤は仕方なく△4二玉としたが、その僅か5手後(67手目)に投了に追い込まれた。

この1988年度は、対局数、勝利数、勝率、連勝の記録4部門を独占(80局、64勝、0.800、18連勝)し、将棋大賞最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。なお、記録4部門独占は羽生だけが達成している記録で、しかも、その後に3回(合計4回)達成している。

1989年、第2期竜王戦で3組優勝者として挑戦者決定トーナメントを勝ち上がり、タイトル戦初登場。待ち受ける相手は、研究会「島研」での‘恩師’であり前年に初代竜王の座に就いた島朗であった。持将棋1局を含む全8局の熱闘を4勝3敗で制し、初のタイトル獲得棋界で名人位と並んで序列トップの竜王位に就いた。19歳2か月でのタイトル獲得は、当時の最年少記録であった(最年少タイトルの記録は、翌年、18歳の屋敷伸之によって塗り替えられる)。この年度は、先手番での勝率が9割さえも大きく上回る0.9355であった<ref>1989年度は先手番勝率が.9355(29勝2敗)。玲瓏:羽生善治(棋士)データベースの年度別成績を参照。</ref>。

翌年11月に谷川に竜王位を奪取され、無冠の「前竜王」という肩書きになるが、4か月後の1991年3月に棋王位を獲得し、以降、一冠以上を保持する状態が長く続く。また、肩書きとして段位を名乗ったのは竜王挑戦時の「六段」が最後である。

七冠独占

1992年度、王座福崎文吾から奪取して、初めて複数冠(王座・棋王)となる。ここから長い王座戦連覇が始まり、後に、大山が持つ同一タイトル連覇記録を塗り替えることとなる<ref>ちなみに福崎は、「(羽生さんが今年も王座を防衛したので、私は)今年も“前王座”を防衛しました」というジョークを言うことがある。</ref>。

同年、竜王戦で谷川竜王(三冠)との「三冠対二冠」の対決を迎え、これに勝利。森下卓は、この竜王戦に関し、「タイトル保有の図式が逆転。もしも谷川が竜王を防衛していたとしたら、羽生は七冠どころか四冠も難しかったのではないか。」と述べている<ref>将棋マガジン(日本将棋連盟)1996年6月号、pp.16</ref>。

1993年度、谷川から棋聖を、郷田真隆から王位を奪取して五冠王(大山、中原に次いで3人目)となる。羽生いわく、このときに「初めて七冠を意識した」という<ref name="zokan68">「将棋世界」4月臨時増刊号「七冠王、羽生善治。」(日本将棋連盟、1996年)pp.68-69</ref>。しかし、竜王位を佐藤康光に奪われ四冠に後退する。

一方、順位戦では、1991年度(第50期)のB級2組から2期連続昇級。そして、初参加となる1993年度(第52期)のA級順位戦では、谷川と並んで7勝2敗で1位タイの成績を挙げ、プレーオフを制し、A級初参加にして名人挑戦権を得る。迎えた名人戦1994年)では、前年に初めて悲願の名人位に就いていた‘50歳名人’米長邦雄から奪取する。なお、米長は、もしもストレート負けしたら引退すると心の中で決めていた<ref>「米長邦雄の本」(日本将棋連盟)</ref>が、3連敗の後に2勝を返した。

同年度、さらに竜王位を佐藤から奪還して史上初の六冠王となる。残るタイトルは、谷川が保持する王将位ただ1つとなった。そして、王将リーグでは郷田と5勝1敗同士で並びプレーオフとなったが、これに勝利して王将挑戦権を獲得。ついに、1995年1月からの王将戦七番勝負で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。

この第44期王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間、同時進行していた棋王戦五番勝負(対・森下卓)では3-0のストレート勝ちで早々と防衛を決めていた。

そして、勝っても負けても最後の第7局(1995年3月23 - 24日)は、青森県奥入瀬で行われた。相矢倉の戦形となったが、2日目に千日手が成立。先手・後手を入れ替えての指し直し局は同日中に行われたが、40手目まで千日手局と同じ手順で進行。つまり、相手の手を真似し合ったような格好であった<ref>このことを谷川は「お互いの意思がピッタリ合った」と表現している(日本将棋連盟書籍編『谷川vs羽生100番勝負-最高峰の激闘譜!』日本将棋連盟、2000年。ISBN 978-4819702102より)。</ref>。41手目に先手の谷川が手を変え、以降、矢倉の本格的な戦いとなったが、最後は谷川の111手目を見て羽生が投了。阪神淡路大震災で被災<ref>谷川は、第1局と第2局の間に阪神淡路大震災で被災していた。谷川は後に「(逆に)もしも震災がなかったら、このとき敗れていたのかもしれない」という旨を語っている(『別冊宝島380 将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社別冊宝島〉、1998年。ISBN 978-4796693806より pp.20-21)。</ref>したばかりの谷川によって、七冠制覇を目前で阻止された。この第7局の2日目当日、対局場のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。対局終了後、カメラや質問が主に敗者に向けられたのも、異例のことであった。この王将戦で敗れた羽生は、「もう2、3年は、(七冠の)チャンスは巡ってこないだろう」と思ったという<ref name="zokan68"/>。

ところが、それから1年間、羽生は王将戦第7局の前に既に防衛していた棋王戦(対・森下卓)を含め、名人戦の森下卓、棋聖戦(対・三浦弘行)、王位戦(対・郷田真隆)、王座戦(対・森雞二)、竜王戦(対・佐藤康光)と六冠の防衛に成功する。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。その傍ら、第45期王将リーグは対・中原戦で1敗を喫したものの、村山聖、森内俊之、丸山忠久、郷田真隆、有吉道夫に勝って5勝1敗の1位となり、谷川王将への2年連続での挑戦権を勝ち取る。ちなみに、これらの防衛戦、リーグ戦の中では、終盤戦で相手の悪手に助けられた逆転勝ちがあった<ref>第53期名人戦第1局の108手目、森下は悪手△8三桂(△6七飛成で王手をしながら金を取れば勝勢)を指して羽生の逆転勝ちとなった。第43期王座戦第2局の98手目、森は△6九銀からの詰み(立会人の内藤國雄いわく「1秒でわかる詰み」)を見逃して受けに回り、羽生の逆転勝ち。谷川王将への挑戦権を争う王将リーグでも、森内が95手目に悪手▲9二竜(単に▲5八香として馬を取れば大優勢)を指したことによってもつれ、結果、羽生の勝ちとなった(以上、「将棋マガジン」1996年3月号「さわやか流・米長邦雄のタイトル戦教室」より)。</ref>。

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そして迎えた第45期王将戦七番勝負の決着は、前年とは異なりあっさりとやって来た。羽生は開幕から3連勝。そして、山口県マリンピアくろいでの第4局(1996年2月13日 - 2月14日)を迎える。戦形は横歩取り(羽生が後手)の激しい将棋となったが、羽生の勝利(投了図を右に示す)。4-0のストレートで王将位を奪取し、ついに七冠独占の偉業を成し遂げた。横歩取りは、かつて谷川が低段の頃に愛用しており、それに影響を受けた羽生少年が小学生時代にて好んで指していた思い入れのある戦法であった。それゆえ、その戦形で七冠を達成できたことは、感慨深かったという<ref name="zokan68"/>。

タイトル戦の数が6つ以上になった1975年度以降、全冠制覇は初の出来事で、翌日の新聞の一面を飾ったり、終局直後に生中継によるニュース速報が行われるなど、棋界にとどまらず社会全体で大々的に採り上げられた。

なお、第4局1日目の前日から風邪を引いて熱を出していた。これについては、本人いわく「体調管理が悪いことは褒められたものではない」としながらも、「いい状態ではないから、負けてもしょうがないと思ったことが、逆に、プレッシャーを低減させた一面があった」という<ref name="hyaku"/>。しかし、この第4局が終わって自室に戻ったときは、ベッドに倒れこみ、頭の中は真っ白。それは竜王や名人を初めて獲ったときとは全く異なるものであったらしい<ref name="zokan68"/>。

直後に第21期棋王戦(七冠王としての最初の防衛戦)で高橋道雄を相手に防衛に成功。これで年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。また、この年度は、テレビ棋戦のNHK杯戦早指し将棋選手権でも優勝したので「九冠」とも言われた。しかも、年度勝率は、タイトル戦の番勝負での対局が主であったにもかかわらず、0.8364(歴代2位)という数字であった<ref>46勝9敗のうち、タイトル戦だけでは25勝5敗(.8333)。この年度の最終戦となった対屋敷伸之戦に勝っていれば、中原誠の持つ最高勝率記録(0.8545、47勝8敗)に並ぶことができていた。</ref>。

新年度(1996年度)の最初のタイトル防衛戦(七冠王として2つ目の防衛戦)は、小学生時代からのライバルでタイトル戦初登場の森内俊之との名人戦であり、4勝1敗で防衛に成功した。フルセットの戦いではなかったが、「(森内に)色々な作戦を持って来られたり、封じ手時刻ぎりぎりで指されたりして、ハードな名人戦だった」という<ref>将棋マガジン(日本将棋連盟)1996年8月号でのインタビュー</ref>。

次の防衛戦(七冠王としての3つ目の防衛戦)は、2年連続で伏兵<ref>羽生の全冠独占後に雑誌『将棋マガジン』(日本将棋連盟発行)の中で「羽生から最初にタイトルを奪取するのは誰?」というアンケートが行われ、大抵の人が谷川や佐藤康光と答えた中、三浦と答えたのは僅か4人であった。</ref>・三浦弘行五段を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いとなったが、最終第5局で相掛かり2八飛車引き<ref>相掛かりの先手で、飛車を「浮き飛車」(2六飛)にせず「引き飛車」(2八飛)にする指し方は当時としては珍しかったため、力戦と呼ばれた。しかし、これをきっかけに、プロ間で流行するようになる。</ref>の趣向を見せた三浦に敗れ、七冠独占は167日で幕を降ろした1996年2月14日=王将奪取日 - 7月30日=棋聖失冠日)。七冠独占が崩れた羽生は「いつかはこういう日が来ると覚悟してはいましたが、現実となるとちょっとつらい部分もあります」と語っている。

七冠以後

三浦から棋聖位を奪われたのと同年の第9期竜王戦と、翌1997年の第55期名人戦という2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川にタイトルを奪われ四冠に後退<ref>この名人戦で、谷川は名人位獲得通算5期となり、十七世名人資格を得た。</ref>。獲得賞金・対局料ランキングでは、羽生は1位が‘指定席’であるが、1997年は谷川竜王・名人にその座を譲った。

第47回(1997年度)NHK杯戦決勝は、村山聖との最後の対戦となった(約5ヵ月後の1998年8月8日に村山が死去)。最終盤、村山が悪手(68手目△7六角<ref>「将棋世界」1998年5月号『第47回NHK杯トーナメント 四冠羽生善治vs八段村山聖 痛恨の△7六角』</ref>)を指し、急転直下で3手後に村山の投了となった。羽生は4度目の優勝。村山は表彰式で「優勝したはずなんですが」と笑顔で冗談を言った。これで、二人の通算対戦成績は羽生の7勝6敗となった(村山の休場による4月の不戦勝を含めると8勝6敗)。

2003年度、第51期王座戦では、10代で羽生より一回り以上若い挑戦者・渡辺明五段を迎える。1勝2敗とされてからの2連勝で辛くも防衛。最終第5局では、終盤で勝ちが確実となったときに手が激しく震え、をまともに持てなかった(後述の対局に関するエピソード も参照)。

同年度の竜王戦、王将戦、そして翌2004年度の名人戦で、いずれも森内に立て続けにタイトルを奪われ、永世竜王・永世名人の資格獲得を逸した。また、竜王戦は自身初のタイトル戦ストレート負けであった。これで羽生のタイトルは王座だけになった。羽生が一冠のみとなるのは11年9か月ぶりのことである。この時点でタイトル保持者は、森内竜王・名人(王将と合わせて三冠)、谷川王位・棋王(二冠)、佐藤(康)棋聖、羽生王座となり、この瞬間、羽生は最多冠から転落しただけでなく無冠の危機さえ迎えた。しかし、その2004年度中に次々とタイトル挑戦権を得る。そして、谷川から王位を奪取し、王座一冠の時期は89日で終わる(2004年6月11日 - 2004年9月8日)。さらに王座戦で森内の挑戦を退けて防衛した後、森内から王将をストレートで奪還、谷川から棋王もストレートで奪取して四冠となり、あっという間に再び7タイトルの過半数を占める。また、A級順位戦でも7勝2敗で1位となり森内名人への挑戦権を得る。しかし、その名人戦(2005年4月-6月)ではフルセットの戦いの末に敗れ、前年に続き永世名人の資格獲得(通算5期)を逸す。結果的に、この2年後、森内は羽生より一歩先に永世名人に到達することとなる。

2005年、王座戦で14連覇を果たし、1959年から1971年にかけて大山康晴が名人戦で樹立した同一タイトル連覇記録(13連覇)を抜く。王座就位式では、「大山先生にはとてもかなわないが、数字の上だけでも一つ追いつくことができた」と偉大な先輩に敬意を表した。

2005年度のA級順位戦では8勝1敗の成績だったにもかかわらず谷川とのプレーオフとなり、結果敗れて名人挑戦を逃した。8勝して名人挑戦できなかったのは唯一のケースである。なお、このプレーオフの一局は結果的に「(羽生が谷川の玉を)詰ましにいって詰まなかった」ものだったが、内容は高く評価され、第34回将棋大賞で創設されたばかりの「名局賞」を、谷川とともに受賞している。

2006年、王座防衛の時点で通算タイトル獲得数を65期とし、中原誠(通算64期)を抜いて歴代単独2位となる。

2007年、深浦康市に王位を奪取されるが、最終第7局の終盤戦の内容が評価され、2年連続で将棋大賞の名局賞を受賞する。

2007年12月20日、第66期A級順位戦6回戦・対久保利明戦で勝ち、史上8人目の通算1000勝特別将棋栄誉賞)を史上最年少、最速、最高勝率で達成。その2か月後の2008年2月28日には、第57期(2007年度)王将戦で防衛に成功し、史上2人目の棋戦優勝100回(タイトル獲得68期、一般棋戦優勝32回)を達成。

2008年6月17日、第66期名人戦第6局で森内名人を破り、名人位と三冠に復帰。通算5期獲得により永世名人(十九世名人)の資格を得るとともに、史上初の、いわゆる「永世六冠」(永世名人、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将)を達成(大山康晴と中原誠の「永世五冠」を抜く)。そして、残る1つの永世位獲得をかけ、第21期(2008年度)竜王戦で渡辺明竜王への挑戦権を得る。渡辺が勝てば連続5期で初代永世竜王、羽生が勝てば通算7期で初代永世竜王という「永世竜王決定戦」となった。七番勝負は羽生が開幕3連勝。将棋界では七番勝負での3連敗4連勝の前例がなかったこと<ref>3連勝3連敗は、これ以前に2度発生しており、1978年の十段戦では中原誠3連勝の後に米長邦雄が3連勝、2005年の王位戦では羽生3連勝の後に佐藤康光が3連勝しているが、最終局で達成されていなかった。なお、囲碁のタイトル戦では3連敗4連勝は、すでに何度も発生していた。</ref>、そして、追い詰めているのが羽生だということもあり、奪取は確実視された。ところがそこから渡辺が粘って3勝を返し、フルセットに持ち込まれる。2008年12月17日 - 18日に山形県天童市で行われた最終第7局は渡辺の勝ちとなり、羽生は将棋界初の3連勝4連敗を喫した。なお、この最終局は矢倉の戦形からお互い早めに動く展開で、中・終盤のねじり合いの内容が素晴らしく、将棋大賞の名局賞受賞局となった。羽生にとっては同賞創設から3年連続3回目の受賞で、いずれも敗局での受賞である。

2009年度、郷田真隆を挑戦者として迎えた第67期名人戦は、2勝3敗の角番に追い込まれてからの2連勝で防衛。これで、通算6期目の名人位獲得となり、谷川と森内の通算5期を抜いて、現役単独1位、歴代単独4位となった。同年9月25日には第57期王座戦第3局で山崎隆之を降し、3勝0敗で王座を防衛。2005年に自らが達成した同一タイトル連覇記録を18に伸ばすとともに、同一タイトル5期連続ストレート防衛の新記録を達成した(従来の記録は、自身が1996年度の棋王戦と1997年度の王座戦で達成していた4期連続)。第59回(2009年度)NHK杯戦決勝(2010年3月21日放送)では、「関西若手四天王」の一人で谷川浩司・森内俊之・渡辺明を破り勝ち上がってきた糸谷哲郎五段に勝ち、2連覇。通算優勝回数を大山康晴と並ぶ歴代1位タイの8回とし、将棋では史上初の名誉NHK杯選手権者の称号獲得<ref>囲碁では坂田栄男が名誉NHK杯選手権者となっている。</ref>まであと2とした。2009年度の年間成績は30勝・勝率0.625という13年ぶりの低水準であったが、要所に星を集めてタイトル防衛3・優勝2とし、久保利明(41勝、羽生から王将位を奪い二冠)を抑え17度目の最優秀棋士賞を獲得した(羽生はこの年度の第3回朝日杯決勝で久保に勝っている)。

2010年度、第51期王位戦挑戦者決定リーグ戦において、6月1日の白組プレーオフ戸辺誠戦に勝利し通算1100勝を達成(2010年現在、1100勝達成時の通算勝率は7割台をキープ)。第81期棋聖戦出場にてタイトル戦登場100回を達成。

棋風・評価

居飛車振り飛車相振り飛車も自在に指しこなすオールラウンドプレイヤーである。

また、対局の中の様々な面で強さを発揮する。勝又清和は「大山康晴の力強い受け、中原誠の自然流の攻め、加藤一二三の重厚な攻め、谷川浩司の光速の寄せ、米長邦雄の泥沼流の指し回し、佐藤康光の緻密流の深い読み、丸山忠久の激辛流の指し回し、森内俊之の鉄板流の受け、といった歴代名人の長所を状況に応じて指し手に反映させる‘歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男’」としている<ref>『将棋世界』(日本将棋連盟)2008年10月号68頁「これならわかる! 最新戦法講義」</ref>。

終盤での絶妙の勝負手あるいは手渡し、他の棋士が思いつかないような独特な寄せ手順から逆転することは、主に若手時代、「羽生マジック」と呼ばれた。 好きな駒は銀将。2008年の名人戦(永世名人の資格を獲得)でも銀の動きに特徴が見られた。

金銀を2三(後手なら8七)や8三(後手なら2七)に打った対局の勝率が高いと言われている。ここに金銀を打つのは、通常は勝ちづらいと考えられている手法である。このため、棋界の一部では、これらのマス目は「羽生ゾーン」と呼ばれている<ref>鈴木大介勝又清和「進化する羽生将棋」『将棋世界』2008年3月号、日本将棋連盟、63-65頁</ref>。 著書『決断力』で「成長するために逃げずに敢えて相手の得意な戦型に挑戦する」との旨の発言をしている。

長年のライバルである森内俊之は、「彼の凄さは、周りのレベルも上げつつ、自分のレベルも上げるところにある。勝負の世界にいながら、周りとの差を広げることだけにこだわっていない。」と語る<ref>『将棋世界』2006年10月号、日本将棋連盟、18 - 19頁</ref>。これに関しては他に、観戦記者が「感想戦で羽生などは別の手順をすべて明らかにします。今後の対局もあるからバラすと損になる等と考えない」等がある<ref>『ゲンダイネット』話題の焦点 2000年7月7日 掲載</ref>。

渡辺明は、「佐藤棋聖に敗れA級の羽生-谷川戦を観戦。あまりの名局に感動し動けない。トップ棋士の力を見た一日。」、「羽生名人はどんな戦法も指せる。」、「情熱大陸」の竜王戦密着取材では、第一局の羽生の勝ちに関して「あの状態(渡辺は羽生が攻めきれないと読んでいた)から勝てると読んでいたのは恐らく羽生さんだけじゃないかな・・・。」と ナレーションの「差を見せ付けられた」との声と共に語った。

深浦康市は、2003年に「(二冠に後退したが)羽生さんは今も最強だと思っています。羽生さんに比べると自分はまだまだ。」と語る<ref>NIKKEI NET将棋王国 会見プラザ 第5回 深浦康市八段</ref>。

中原誠は、49期王位戦特集にて「オールラウンドプレーヤーで欠点がない。歴史上初の棋士。」と評した。また、スランプ時の羽生を「七冠を達成して目標がなくなり一時期成績が落ちた。今はまた大山先生の記録を抜く目標ができた。」としている。

谷川浩司は著書の『集中力』で、「羽生さんはあらゆる戦法を指しこなせる棋士。オールラウンドプレイヤーで変幻自在のため、どう指してくるのかわからない。攻めも受けも強い。こだわりが全くないのが特色。棋風がない。」と述べ、2008年の羽生の永世名人獲得時のコメントでは最近の羽生の将棋を「勝負にこだわらない内容重視の将棋」と述べている(羽生自身も2007年頃からNHKの番組等で何度も「もう勝ち負けにこだわる将棋には意味がないと思うんですよ」と現在の将棋への取り組み方を示した)。

語録

  • 「将棋と人生は別物。『遊びは芸の肥やし』は遊ぶための口実に過ぎない。『将棋は技術』と割り切っている。」
  • 「わからないからこそ勝負どころ。僕の場合、読みより勘で決める。」
  • 「(読む手数は)直線で30 - 40手。枝葉に分かれて300 - 400手。」
  • 「記憶力のピークは20歳の頃だった」(つまり、七冠制覇のときはすでに下降していた)
  • 「1回の対局で3キロぐらいは痩せる」
  • 「(自分に)弱点はあるが教えない。『そんなことか』と思われそうなものではあるが、それを探り出すのが勝負の世界。」

(以上は、七冠達成直後の、田丸美寿々によるインタビュー(1996年2月19日)から<ref name="zokan126">「将棋世界」4月臨時増刊号「七冠王、羽生善治。」(日本将棋連盟、1996年)pp.126 - 127</ref>)

  • 「今の情報化社会では知識や計算は簡単に手に入る、出来る物。だからもうあまりそれらに意味はない。これからの時代の人間にとって大事なのは決断する事だと思います。」<ref>日本テレビ『世界一受けたい授業』(2007年3月3日放送)</ref>
  • 「一人で走ってたら今もこうして走れているか分からない。みんな(羽生世代)で走ってきたからこそ今の自分がある。」<ref>NHK『プロフェッショナル仕事の流儀』(2008年7月15日放送)</ref>

パーソナルデータ

対局関連の逸話

重要な対局
  • 初タイトルの竜王を失った1990年の竜王戦七番勝負は、谷川3連勝の後に羽生が1勝を返し、最終的に4-1で谷川が奪取した展開であったが、角番で1勝を挙げた第4局は、入玉模様ではなく攻め合いであったにもかかわらず、203手という長手数の激戦であった。この一局のことを、羽生は「それまでは、昇級・昇段・タイトル獲得という上だけを見ていたが、初めて後ろ向きで対局したという意味で、(将棋観を変えた最も)印象に残る一局」<ref name="hyaku">2008年秋にNHKで放送の「100年インタビュー」より。(収録は2008年9月13日、2008年10月2日にNHKデジタル衛星ハイビジョンで放送、2008年11月8日未明(11月7日深夜)にNHK衛星第2テレビジョンで放送。インタビューアーは坪倉善彦アナウンサー。) </ref>と語り、一方、谷川は「どちらが勝ってもおかしくない名局」、「4-0か4-1かというのは、その後のことを考えれば大きかったかもしれない」<ref>『別冊宝島380 将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社別冊宝島〉、1998年。ISBN 978-4796693806 pp.17。</ref>という旨を述べている。
  • 永世称号資格の獲得では、棋界で序列最上位の竜王・名人の2つのみ、あと一歩となると足踏みする。永世名人資格の獲得は森内に2年連続で阻止され、その森内の方が先に獲得した(森内が十八世、羽生が十九世)。唯一永世称号を獲得していないのは竜王だけで、2002年に通算6期獲得で残り1期としたが、その後止まっている。2008年渡辺明と戦った竜王戦は勝った方が初代永世竜王となるシリーズであったが、将棋史上初の3連勝4連敗で敗れた。著書『決断力』で「3連勝すると不安になり気の緩みが出る」との旨を述べている。
  • 第67期名人戦七番勝負第1局の2日目(2009年4月10日)、対局中の羽生に対して観戦記者が扇子へのサインを求めるという珍事があった<ref>(日本経済新聞 NIKKEI NET)</ref><ref>Yahoo!ニュース</ref>。羽生は44手目を考慮中であったが、記者の扇子にサインをした。これは午前9時45分頃の出来事であったため、NHK BS2の生放送(9:00 - 10:00)でこの様子がリアルタイムで映し出された<ref>司会の長野亮アナウンサーはつぶやくように「今・・何か書いていますね・・」「まだ午前中ということで心の余裕が感じられるような・・」と‘実況中継’した。</ref>。後で羽生は「驚きましたが、10秒か15秒で済むことでしたから」とコメントした<ref>NHK総合テレビ・2009年4月11日早朝のニュース</ref>。この記者は朝日新聞社の嘱託を長くつとめた東公平で、この対局の観戦記の執筆を同社から委託されていた。同社は東に厳重注意をした。東は「(羽生とは昔から顔見知りであったため)うかつなことをしてしまった」との反省の弁を述べた。ちなみに、この対局には勝利している。
所作
  • 駒を持って指すとき、細い指をぴんと伸ばし、そのせいで手の甲に骨が浮き出る。また、初手を指すときは、ゆっくりと舞わせてから盤面に下ろす。特に▲7六歩の場合は、将棋漫画やドラマの登場人物のごとく、持った歩を左斜めに舞わせる。これらは、他の棋士達ではあまり見られない所作である。
  • 打ち下ろした駒をさらに指で盤に押し付ける仕草をすることがあるのも、羽生の特徴である。これは、俗に「グリグリ」と呼ばれ、無意識なのか意識的なのかは不明であるが、勝負どころの一手や終盤で勝ちに行く手を指すときに見られる。第60回(2010年度)NHK杯テレビ将棋トーナメントのオープニング画面でも、それが見られる。
  • 2003年の第51期王座戦では、タイトル戦初登場で19歳の渡辺明五段の挑戦を受け3-2で防衛したが、最終の第5局の終盤で羽生の手が震えて駒をまともに持てなかった<ref>『将棋世界』2007年1月号、日本将棋連盟。また、対局相手の渡辺も、テレビ番組で証言している。</ref>。その後も、一手のミスも許されない終盤で羽生の手が震えることが度々見られるようになった。手の震えが出るようになったのは30代に入ってからである<ref>たとえば、『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK総合、2006年7月13日放送)で紹介された藤井猛との朝日オープンでの対局や、『囲碁・将棋ジャーナル』(NHK BS2、2008年5月17日放送)で紹介された2008年の森内との名人戦第3局(大逆転の一局、後述)でも見られ、さらに、同第4局の▲6二角成を指す際に6二の金を取るときには、隣の駒を乱してしまうほど激しく震えた。</ref>。田中寅彦はNHK杯で羽生の将棋を解説していた際「イップスが出ないね」と発言し、この震えをイップスと見ている。
  • プロデビューして間もない低段時代には、上目で相手をにらみつける(ように見える)「ハブにらみ」が相手を恐れさせたとされる。なお、同様の「にらみ」は佐藤康光や田村康介にも見られる。
  • 初めて竜王位に就いた1989年頃は、先輩棋士(自分より段位や実績が上の棋士)と対局する際、上座に座るべきか下座に座るべきか、毎局悩んでいたが、1990年に1期で竜王位を失って以降は、席次に関しては、タイトル保持者としてふさわしい行動をとるよう努め、それで反感を買っても仕方がない、という考えをとるようになった<ref>羽生善治『決断力』角川書店〈角川oneテーマ21〉、2005年、5-6頁。</ref>。その後1994年に、A級順位戦8回戦で中原誠(当時の肩書きは前名人)と対戦した際、羽生(当時王位・王座・棋王・棋聖の四冠)が上座についたことで物議をかもした。この件は「上座事件」と呼ばれることもある。これについて羽生は、それまでのリーグ戦の成績が、自分の方がよかったので勘違いした、と語っている<ref>NIKKEI NET 将棋王国 コラムの森(1995年9月26日の日本経済新聞夕刊からの引用) 日本経済新聞社</ref>。
諸対局内容
  • 初めての五冠王の頃は振り駒で先手を引き当てることが多く、「振り駒も強い」と言われた。1992年度と1993年度のタイトル戦における振り駒(第1局および最終局)は12回行われたが、すべて羽生が先手となった。
  • 若手時代、NHK杯戦で先手番となったとき、▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩という相掛かりの出だしの後、常識とされる5手目▲7八金を指すまでに若干の時間を使って考慮をし、観戦している人々をドキリとさせたことがある<ref>解説役で出演していた内藤國雄は、▲2四歩と指しても先手が僅かに悪いとされているだけであり、羽生ならば何かやってくるかもしれないと相手に思わせる雰囲気を持っている、という趣旨の解説をしていた。</ref>。
  • 1993年12月24日の対谷川戦(第63期棋聖戦五番勝負第2局)において、序盤で4四の歩のタダ取りを許す△4二角、さらには、いったん敵玉に迫っていた7九のと金を、香車を取るだけのために2手をかけて△8九、△9九と「退却」させるという、将棋の常識からかけ離れた奇手を指した。売られた喧嘩に谷川が応じる展開の乱戦となり、さらに終盤だけで80手ほどもある激戦となったが、結果、羽生が勝利している。
  • 1994年、初めて名人位を獲得した直後のNHK杯戦・対畠山鎮戦で、先手・畠山の初手▲2六歩に対して2手目△6二銀と指したことがある。そして、10手目で△3四歩とするまで羽生の歩が1つも動かないという、極めて珍しい出だしとなった。まさに「名人に定跡なし」である。結果、勝利したものの、自陣を整備するのに神経をすり減らす展開であった。また、ほぼ同時期に、先手の初手▲7六歩に対する2手目△6二銀も指しており、こちらは一度ならず何度も指している。これは、相手が振り飛車党の場合に、たまに用いられる作戦ではあるが、羽生が実戦で試した相手は、谷川浩司、郷田真隆、森下卓といった居飛車党である。なお、後に羽生は「2手目△6二銀は損だが、どれぐらい損であるかを見極めるために指した。どれだけ損であるかがわかったので、もう指すことはない。」という旨を語っている<ref>『将棋世界』2006年8月号、日本将棋連盟。</ref>。
  • 2007年10月14日放送のNHK杯戦、対中川大輔戦は、羽生が七冠のときのNHK杯戦決勝と同じ顔合わせとなったが、終盤で中川が自分の玉のトン死の筋に気づかず、羽生の逆転勝ちとなった。最後は歩1枚さえも余らない、ぴったりの詰み。解説の加藤一二三は、トン死の筋に気づいたとき、「あれ?おかしいですね。えぇぇ! トン死?」「NHK杯戦史上に残る大逆転じゃないかな」「ひょぉぉ!」などの驚嘆の声を連発した。この対局の映像は後にニコニコ動画に投稿され[1][2]、脅威的な再生数を記録した。また、この対局を編集してBGMをつけた動画[3]の再生数は約31万回を超えている。また、後述する勝又清和による解説の動画[4]も再生数は10万を超えており、プロ対局の解説動画としては最も再生数が多い。勝又清和将棋ニュースプラスで、この対局を解説した際、「羽生さん自身もこんな奇跡的な展開はないなと(言っている)」、「(羽生が)後でネットも見てたらしいですね。その話を聞いた時『ニコニコ動画に出てましたね』と結構反響があったので。」などのエピソードを紹介。この時点で羽生が視聴したかは明確ではなかったが、「棋士 羽生善治」のロングインタビューの中で、ニコニコ動画の映像を視聴したと明かした。
  • 2008年の第66期名人戦第3局(2008年5月8日 - 9日)において、検討陣の棋士達が森内俊之の勝ちと判断して検討を打ち切った後、敗勢から驚異的な粘りを見せて、最後の最後で森内のミス<ref>羽生が打った飛車を森内が3枚の銀で捕獲したと思われた直後、羽生が桂馬を動かした142手目が王手銀取り(飛車の空き王手)となり、森内が今打ったばかりの銀が桂馬で取られてしまった。そして、森内の金・銀がぼろぼろと取られていき、その金・銀で森内の玉が寄せられる形となった。</ref>を誘い、大逆転勝利を挙げる。羽生自身はその後の、『プロフェッショナル 仕事の流儀 ライバルスペシャル 最強の二人、宿命の対決』(NHK総合、2008年7月15日放送)のインタビューの中で「ずっと不利を感じていて気持ちが萎えていたが、それからひたすら最善手を続けた結果、勝利を引き寄せたのではないか」と語っており、その凄まじさは副立会人の深浦康市が「50年に1度の大逆転」と評したほどであった。
  • 史上初のネット公式棋戦である大和証券杯ネット将棋・最強戦の第2回、1回戦・渡辺明竜王との対局(2008年5月11日)において、マウス操作のミス<ref>2度クリックをしないと指し手が確定されない設定(操作ミスによる指し間違いを防ぐ設定)を対局途中から解除するつもりだったが、解除するのをうっかり忘れたままであったという。時間がぎりぎりになり、着手確認の際誤った操作をしてしまい、着手が間に合わなかったという。直後の公開された感想戦および後日の公式ウェブサイト(第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 渡辺明竜王対羽生善治二冠戦の時間切れ負けについての追加2(5/16) 日本将棋連盟、2008年5月16日)上での発表による。</ref>によって、痛恨の時間切れ負けをする<ref>3か月前に中井広恵もネット対局で時間切れ負けをしている。</ref>。時間切れとなった局面は68手目、中盤から終盤への入り口で一番面白くなるところであり、しかも羽生優勢<ref>直後の公開された感想戦での渡辺・羽生両者の見解</ref>の局面であった<ref>翌日、日本将棋連盟の公式ウェブサイト(同上。第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 渡辺明竜王対羽生善治二冠戦の時間切れ負けについての追加2(5/16) 日本将棋連盟、2008年5月16日)で、対局者への注意徹底を行うこと、そして、万一同様の事態が起こった場合に指し継ぎの感想戦を行えるようなシステム(ソフトウェア)に変えることにより、ファンサービスを向上する旨が発表された。</ref>。なお、これは羽生にとってデビュー以来初めての反則負けとしてマスコミに注目され、翌日の朝刊では一般紙や地方紙でも取り上げられた<ref>この反則負けの3日前 - 2日前には名人戦で森内に勝利して2勝1敗とし、2日後は棋聖戦の挑戦者決定戦を控えている、という過密スケジュールであった。</ref>。

趣味

趣味はチェス水泳と言われていたが、2010年4月27日放送の「爆笑問題のニッポンの教養』」(NHK総合)では、「(趣味は)あまりない。ぼんやりすること、ぼーっとすることが好き」と語った。

チェス

趣味のチェスにおいても強豪である。

海外のチェス大会に一人で出場するため、多忙な中で英語を勉強し、パリやシカゴで行われた大会に出場した。2006年にフィラデルフィアで行われたワールドオープンでは、英語の取材に羽生自らが英語で応じており、その模様は公式サイトで公開されている。また、フランスのチェス大会に出場した羽生が、フランス語で買い物をしている姿は、「情熱大陸」で放送された。

チェスの魅力を将棋棋士の室岡克彦に22歳で教えられ、本でルール等を覚えた。実際にチェスをプレイし始めたのは七冠制覇前後の1996年頃、26才とかなり遅く、日本在住のフランス人チェス講師のジャック・ピノー氏に一から教わった。プレイといっても多忙のため月に1、2度の練習であった。将棋とチェスに関して羽生は「当初似ていると思っていたが、全然違う」と語った<ref>chessbase.com "When a Shogi champion turns to chess" http://www.shogi.net/chessbase-habu.html</ref>。

上記の将棋との混乱やチェスの開始時期が遅い事、月1、2度という僅かな練習にも関わらず、2年後の1998年3月に全日本百傑戦で単独優勝、9月のJapan Openで、同率優勝し、僅か2年で国内では敵なしとなった。

1999年6月には、女性プレイヤー最高位Woman Grandmaster(以下WGM)でIMの称号も持つAlmira Skripchenkoと2連戦して2連勝。しかし、その夫(当時)である最高位GMのJoël Lautierに敗れる<ref>http://www.msoworld.com/mindzine/news/iview/laut_shogi.html</ref>。 2000年は将棋界で記録的な活躍をしていたにも関わらず、暇を見つけてChicago Openに参加(海外大会初参加)。勝ち越しは決めたが惜しくもGM2人に敗れる。

2001年4月のSt.Quentin Openでは、GMとIMに敗れたがIMに次ぐ称号FIDE Master(以下FM)3人を相手に2勝1分と快勝、パフォーマンスで2455を叩き出し上位に入賞。その後のイベントでは、別のフランス人FMを相手に2戦し、1勝1分。FM相手には負けなしという強さを見せる。

2002年5月のParis NAO MastersではFMに1勝、IMに2勝1分、GMに1敗2分、とIMにも勝ち越すようになる。優勝者は羽生が下したIM(当時。現GM)である。10月に再来日したGMのJoel Lautierと再戦し、敗れる。

2003年7月のWorld Openでは、IMに1分、GMに1敗1分。2004年1月のWestern Class Championshipでは、FMに1勝、GMに1敗となる。2005年のHoogeveen Essent Openでは、FMに2勝、IMに1敗1分、GMに1勝2敗1分として最高位のGMに勝ち始め、同年のZuerich Open-Aでは、GMに1勝1敗1分でGMに五分の成績を残した。

2006年4月のDubai Openでは、Woman FIDE Masterに1勝、GMに2敗1分と苦戦。同年のWorld OpenではCandidate Masterに1勝、GMに1勝1敗2分で上位入賞を果たす。 2007年5月のBrussels rap 5thでは、GMに2勝1敗としてGMに勝ち越す<ref>http://www.365chess.com/players/Yoshiharu_Habu/</ref>。

上記の対戦成績から羽生はFMの称号を持ち、2007年5月の時点でレイティングは2404と日本国内1位、世界ランキングは2796位、アジアランキングは260位、日本チェス協会の国内称号である段位は六段とした。少ないながらも定期的に大会に出ては順調にレートを上げていたが、その2007年5月を最後に一切チェス大会に出なくなる。ちょうどその頃の出来事として、獲得賞金・対局料で7年ぶりに1億円の大台を割る、永世名人位を森内に先取される等があった。現在FIDEの統計においては、Active players(活動中のプレイヤー)の枠からは外されている。

エピソード

Template:出典の明記

  • 好物は蕎麦。苦手なものはカエル<ref>「将棋まるごと90分」(囲碁・将棋チャンネル、2006年10月17日放送)</ref>。
  • 普段は自然体で喋るが、タイトル戦前日などのインタビューでの質問に対しては、大きな抑揚をつけて「そぉーですね。あーのー。まぁー。」などとゆっくり前置きをしながら、慎重に言葉を選んで受け答えをすることが多い。産経ニュースの記事では「そうですね名人」と書かれた<ref>「そうですね名人」の包容力(産経ニュース)</ref>。
  • 寝癖がトレードマークであった(結婚後はあまり見られなくなった)。演歌歌手長山洋子の歌「たてがみ」は、羽生の寝癖になぞらえたタイトルのオマージュソングである。また、書籍「新しい単位」(扶桑社)では、「だらしなさ」の単位として「hb(ハブ)」が採用されている。日本テレビのテレビ番組『進め!電波少年』では、松村邦洋が「羽生7冠王の寝癖を直したい!」という企画を掲げて、式場へアポなし突入をされた。なお、『進め!電波少年』では、松村と19枚落ち(羽生の駒は王将のみ)で対戦するという企画もあり、羽生が勝っている。
  • チャトランガ系統のゲームは一通り出来る<ref>著書「決断力」P199</ref>。囲碁は小学生の時にやっており五級からは苦戦したものの初段になりやめた。<ref>「先を読む頭脳」P147</ref>。
  • 漫画作品『月下の棋士』の主人公・氷室将介の圧倒的な強さと対局時のオーラは羽生をモデルにしていると、作者の能條純一が単行本最終巻で語っている。
  • 2006年11月14日八王子市より八王子観光大使を委嘱される。
  • 子供の頃公文式をしていたため、CMに起用されていたこともある。また、その頃から七冠王になるまでを書いた本(羽生善治ストーリー、マンガ形式)もある。

昇段履歴

  • 1982年12月2日(12歳) - 6級で奨励会入会
  • 1983年2月3日(12歳) - 5級 (9勝3敗)
  • 1983年3月28日(12歳) - 4級 (6連勝)
  • 1983年5月11日(12歳) - 3級 (6連勝)
  • 1983年7月7日(12歳) - 2級 (6連勝)
  • 1983年8月24日(12歳) - 1級 (6連勝)
  • 1984年1月11日(13歳) - 初段 (12勝4敗)
  • 1984年9月10日(13歳) - 二段 (14勝5敗)
  • 1985年4月25日(14歳) - 三段 (12勝4敗)
  • 1985年12月18日(15歳) - 四段 (13勝4敗)<ref name="sandan"/> = プロ入り(当時史上3人目の「中学生棋士」)
  • 1988年4月1日(17歳) - 五段 (順位戦C級1組昇級)
  • 1989年10月1日(19歳) - 六段 (竜王挑戦)
  • 1990年10月1日(20歳) - 七段 (前年の竜王位獲得による<ref>当時は、竜王戦の昇段規定であっても、1年以内に2つ昇段できない規定であったため。</ref>)
  • 1993年4月1日(22歳) - 八段 (順位戦A級昇級)
  • 1994年4月1日(23歳) - 九段 (タイトル3期・・・八段昇段前にタイトル3期は達成していたが、1年以内の飛び昇段ができない規定のため)

主な成績

タイトル・永世称号

色付きは現在在位。

詳細は末尾の年表 を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録 、および、将棋のタイトル在位者一覧 (2) を参照。

タイトル番勝負 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号資格
竜王七番勝負
10-12月
89(第2期), 92, 94-95, 01-02 12 6期
(歴代1位タイ)
2
名人七番勝負
4-6月
94(第52期)-96, 03, 08-10 10 7期
(現役1位)
(歴代4位)
3 永世名人
十九世名人
王位七番勝負
7-9月
93(第34期)-01, 04-06 16 12期
(歴代1位タイ)
9
(歴代2位)
永世王位
王座五番勝負
9-10月
92(第40期)-09 18 18期
(歴代1位)
18
(歴代1位)
(継続中)
名誉王座
棋王五番勝負
2-3月
90(第16期)-01, 04 16 13期
(歴代1位)
12
(歴代1位)
永世棋王
棋聖五番勝負
6-7月
93前(第62期)-94後-95(第66期),
00, 08-09
11 8期
(現役1位)
(歴代3位)
5 永世棋聖
王将七番勝負
1-3月
95(第45期)-00, 02, 04-08 16 12期
(現役1位)
(歴代2位)
6
(歴代2位タイ)
永世王将
登場回数合計99、 獲得合計76期 = 歴代2位(1位は大山康晴の80期)
番勝負終了前は除く。最新は、2010年度の名人防衛(2010年5月19日)。

一般棋戦優勝

通算35回(2010年3月21日のNHK杯テレビ将棋トーナメント優勝まで) = 歴代2位(1位は大山康晴の44回)

詳細は、末尾の年表 を参照。

在籍クラス

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

将棋大賞

詳細は末尾の年表 を参照。記録は次項を参照。

記録(歴代1位のもの)

  • タイトル関連
    • タイトル最長期間保持 - 19年超(1991年3月18日棋王獲得 - ) ※継続中
    • 同一タイトル連続保持 - 18期(王座1992年 - 2009年) ※継続中
    • 同一タイトル連勝 - 16連勝(棋王1993年 - 1998年、王座:2004年 - 2009年) ※王座は継続中
  • 優勝関連
    • NHK杯戦 - 優勝8回(大山康晴と並び歴代1位タイ、1988(=第38回)、1991、1995、1997-1998、2000、2008-2009年度)
    • オールスター勝ち抜き戦 - 16連勝(2000年 = 第20回)<ref>「オールスター勝ち抜き戦」は終了棋戦のため、羽生の16連勝の記録は破られないことが確定(谷川浩司と中原誠が12連勝で2位タイ)。</ref>
  • 単年度記録
    • 年度最多勝利 - 68勝(2000年度)
    • 年度最多対局 - 89局(2000年度)
    • 将棋大賞・年度記録4部門賞独占(最多対局、最多勝利、勝率1位、連勝) - 4回(1988、1989、1992、2000年度) - 羽生以外の棋士は一度も達成していない
  • 通算記録
    • 1000勝所要年月最速 - 22年0か月
    • 最年少1000勝 - 37歳2か月23日
    • 1000勝達成時までの最高通算勝率 - .7283
なお、通算600勝・800勝到達も最速・最年少・最高勝率記録を保持している。
  • 珍記録
    • 将棋のタイトル戦七番勝負史上初の3連勝4連敗(2008年12月18日 第21期竜王戦第7局)

その他表彰

著書

その他多数。

関連書

  • 四人の名人を破った少年 飛矢正順 評伝社, 1990.2
  • 竜王、羽生善治。 将棋世界臨時増刊 1990.2
  • 羽生善治妙技伝 森雞二 木本書店, 1993.4
  • 羽生善治 天才棋士、その魅力と強さの秘密 大矢順正 勁文社, 1994.2
  • まんが羽生善治物語 高橋美幸原作 まきのまさる画 くもん出版, 1995.6
  • 羽生善治神様が愛した青年 田中寅彦 ベストセラーズ, 1996.3
  • 七冠王、羽生善治。 将棋世界臨時増刊 1996.3
  • 七冠王羽生善治α波頭脳の秘密 マガジンハウス編 マガジンハウス, 1996.4
  • しなやかな天才たち「イチロー」「武豊」「羽生善治」万代勉ほか アリアドネ企画, 1996.7
  • 羽生善治名人位防衛戦の舞台裏 日浦市郎 エール出版社, 1996.12
  • 羽生善治頭の鍛え方 大矢順正 三笠書房, 1996.7
  • 強すぎる天才・羽生善治の謎 七冠研究記者会 本の森出版センター, 1996.4
  • 羽生善治に学ぶ子どものための「超」集中記憶術 大内延介 講談社, 1997.5
  • 羽生 21世紀の将棋 保坂和志 朝日出版社 1997.5
  • 天才羽生善治神話 小室明 三一書房, 1997.10
  • 羽生善治夢と、自信と。椎名龍一 学習研究社, 2006.11
  • シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代 梅田望夫 中央公論新社,2009.4
  • 最強棋士 羽生善治-天才の育ちと環境- 山田史生 思文出版,2009.9
  • 羽生善治 考える力 人生を変える史上最強棋士の「思考法」(別冊宝島1666) 宝島社,2009.11

出演

テレビ番組

ほか多数

CM

羽生善治の戦績

脚注

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関連項目

外部リンク

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