横浜FC

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Template:サッカークラブ 横浜FC(よこはまエフシー、Yokohama F.C.)は、日本神奈川県横浜市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。サポーターの間では「フリエ」とも呼ばれている。

目次

クラブの概要

2001年Jリーグ加盟。ホームタウン神奈川県横浜市、ホームスタジアムは三ツ沢公園球技場日産スタジアムでも試合を開催する。財政事情により専用の練習場が確保できなかったため港北区しんよこフットボールパークなど市内各地を巡回して練習していた(〜2006年シーズン)が、2007年からかつて横浜フリューゲルスが使用していた戸塚区の戸塚トレーニングセンターの使用をいわば「再開」し、里帰りを果たすことになった。なお、戸塚トレーニングセンターはネーミングライツにより「横浜FC LEOCトレーニングセンター」と改称された。

1998年、出資会社の撤退に伴い、横浜フリューゲルス横浜マリノス吸収合併(事実上のクラブ消滅)されることになり、これに反対するサポーターに選手も加わってクラブ存続を求める署名と募金を実施。しかし合併取り消しは実現せず、天皇杯での優勝を最後にフリューゲルスは消滅することとなった。

合併の手続き終了後、サポーターは「フリューゲルス」という名称の譲渡を申し入れたが、この名称を使用するチームが必要との回答もあったため、出資企業の経営に左右されない市民クラブの設立と翌年1999年からのJリーグ2部(J2)への参加実現にむけ動き出した。

しかし、フリューゲルスを継承するチームとはいえども、サポーターが立ち上げただけのフリューゲルスとは全く違う新設チームであるため、実績のないクラブのJ2参加は困難としてこれは認められなかった(神奈川県の場合は新規参入チームは3部リーグからスタートするのが決まりで、1年ごとにステップアップしても、J2参加には最速でも7年かかる)。日本サッカー協会は、特例中の特例としてJ2の下位に位置する日本フットボールリーグへの「準会員」資格での参加を認めた。一時期、「Y.S.C.C.(現・横浜スポーツ&カルチャークラブ)と統合しないか?」という案が出たが、それは白紙となった。1999年は、リトバルスキー監督のもと日本フットボールリーグ1位。2000年には日本フットボールリーグ「正会員」となり、同年同リーグで無敗の1位。2001年シーズンからJ2に昇格した。この経過が、後に日本サッカー協会飛び級制度の新設に踏み切るきっかけともなった。2002年から女優・藤原紀香が運営するインターネットサイト「Norika.net」がスポンサーに加わった。

2005年6月、学校・病院給食や企業の社内食堂を展開するレオックジャパンの関連会社・フィートエンターテイメント社が横浜FCの第3者割り当て増資を引き受けて事実上のオーナーに就任することになった。「現在の地域密着型チーム運営の形態を維持する」とフィート社は示している。

なお、運営法人の横浜フリエ・スポーツクラブの「フリエ(fulie)」は横浜フリューゲルスの頃から使われてきた単語である。とくにオフィシャルショップ「フリエ元町」(既に閉店)はグッズ販売のみならず、フリューゲルスサポーターの憩いの場という機能も有していた。なお、横浜フリューゲルスは傍系(別チーム扱い)であるため、フリューゲルス時代の記録(創設年、優勝回数、個人賞受賞回数)はカウントされない。

チーム名変更問題

チーム名に愛称は設けず単に横浜FCとしている(J加盟クラブで愛称なしの事例はFC東京に次ぐ2クラブ目)が、いずれはフリューゲルスを名乗ると思われた。しかし奥寺康彦社長がフリューゲルスの名称を継承する事を否定した為、フリューゲルス襲名希望のサポーターグループが解散した経緯がある。

その後、2005年10月に行われたサポートミーティングでは、サポーター側から現行のチーム名で継続してほしいとの提案が出された。これには、フリューゲルスサポーターが立ち上げたチームであるもののフリューゲルスと横浜FCは全くチーム体質が違うことや、フリューゲルスの版権(商標権)横浜F・マリノスにあること(Fはフリューゲルスを指している)等が挙げられている。

名称返還に関しての直接的な要求の声は激減したが、それはフロント側が名称問題を積極的に無視し続けたためであり、潜在的な要望は未だ根強く残っていると思われる。

ソシオ・フリエスタ

横浜FCは企業の資本に頼らない純市民参加型のサッカー・スポーツクラブ作りを目指すという観点で、クラブ運営の核となる任意組織「ソシオ・フリエスタ」を設立した。モデルはスペイン1部リーグ(リーガ・エスパニョーラ)の強豪であるFCバルセロナとされている。同クラブも一般市民から集めた会費を基としてサッカークラブを中心とした様々なスポーツクラブ活動を展開してきた。

横浜FCも創設当初は市民から会員(ソシオ)を募集した。会員は会費をクラブに納める見返りとして、希望者への年間指定席の斡旋の他、試合会場や各種イベントでの運営アシスタント(ボランティア)への登録やクラブ上層部との意見交換会などに出席できる権利を得ることが出来た。この試みは日本の新しいスポーツクラブ運営のモデルとしてマスコミなどからも注目されていた。

しかし、J2加入が確定した2001年年頭ごろから問題が表面化した。ソシオの役員改選選挙が実施されている最中、ソシオの会員宛に突如、運営会社・株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜フリエSC)から「協約書」が送付された。その内容は「ソシオ会員は全員運営会社と直接契約を結ぶことを求める」もので、「本協約書にご賛同いただけず退会を希望される方には、ご返金いたします」という性急な内容だった。

ソシオとの協議で、運営会社は「ソシオの会費は当初から運営会社の運営費として捻出されることになっていたが、理事会の承認なしに運営費を拠出できないのは責任ある球団経営が見込めないと判断した」と主張し、これまでのソシオとの協定書を破棄することを宣言した。

結局、運営会社側はソシオに代る新しいチームの後援組織「横浜FCクラブメンバー」を2001年9月に発表。新社長に就任した奥寺保有の株式をソシオ会員ではなく、クラブメンバーに割り当てること、また会員には「サッカーをする・ふれるといった体験型のイベントを充実させる」ことや「個人情報の管理・責任をより徹底・明確にする」ことなどを提案。名称についてもソシオの名前が係争中だったことから別の名前に変更したという。これにはソシオ理事会側が遺憾の意を示す。

その後ソシオ側は運営会社に対し、ソシオの会費の一部(740万円相当)と会員名簿の返還を求めるよう横浜地方裁判所仮処分申請を行ったが、2002年1月それは却下された。ソシオ側は東京高等裁判所即時抗告を行ったが、これもあくる2003年に却下された。その趣旨は「入会事務・会員名簿の作成は運営会社から委託された業者が行い、団体として内部的にも自立して運営されているとは認めがたいから、ソシオは(法人格を有しない団体でも例外的に当事者能力が認められる)民事保全法7条・民事訴訟法29条の『法人でない社団』とは認められない。よって、当事者能力がないから、申立ては不適法である」というものだった<ref>ソシオ横浜(旧ソシオ・フリエスタ)の資料</ref>。

その間、運営会社が「ソシオの名称は運営会社側に商標登録がある。このまま使用を続けるのなら法的な処置も辞さない」とソシオ側に通告を行い、2003年、ソシオ側はその名称を「ソシオ・フリエスタ」から「ソシオ横浜」に変更した。運営会社側の主要スタッフの交代も追い風となって、同年9月、ソシオ横浜と運営会社・株式会社横浜フリエスポーツクラブは和解合意書に調印し、2年以上に及んだ運営会社側とソシオ側の対立はこうして区切りを迎えた。なお、ソシオ横浜は合意書を踏まえて、ソシオ横浜として「横浜FCクラブメンバーのグループメンバー」にも加入している(2008年現在)。


横浜FCのライバル

フロント、サポーターの大多数が横浜F・マリノスを敵視している。横浜FCが昇格した2007年の二度の横浜ダービーは両チームに深い遺恨を残した。特に8月11日に行われた二戦目については、横浜F・マリノスフロントの煽りポスター(「この街には横浜F・マリノスがある」というもの)や横浜F・マリノス応援団による暴行事件(試合前日に3人組の横浜FCサポーターがマリノス応援団の集団暴行に遭った事件。後日当該グループのリーダーを逮捕。試合当日に横浜FCサポーターが報復行為として入場待ちのマリノスサポーターの列に生卵を投じる事件も起こった。)が起き、耐え難い苦痛を味わった。翌年にも横浜FCサポーターがマリノス側のポスターを無断投棄し警察に訴えられるなど、遺恨は深い。選手同士もライバル意識が強い。

また、本拠地が近い湘南ベルマーレ川崎フロンターレに対しても、ライバル心を燃やす関係者も多く存在する。 また、ダービーというほどの盛り上がりではないが、三浦知良を始め、三浦淳宏山田卓也平本一樹岸野靖之など元ヴェルディの選手が横浜FCに在籍していることもあって、そのため東京ヴェルディに対しても強いライバル心を持っている。1部にいた2007年には3分の1に及ぶ支配下選手がヴェルディ在籍経験がある選手で占められていたこともある。

横浜FCのゴール裏応援団

横浜フリューゲルス時代に三団体(ASA AZULTIFOSI YOKOHAMAOle YOKOHAMA)が存在していた。 現在はASA AZULの解体とTIFOSI YOKOHAMAによる吸収により、一団体(連合応援団BLUTIGRE YOKOHAMA)である。

ホームゲームの開催スタジアムに関して

1999年シーズンの公式戦の会場

横浜FCは三ツ沢(球)をホームスタジアムとしているが、1999年は前述したように超法規的処置として特別に日本フットボールリーグへの参入が認められたことや、三ツ沢(球技場、陸上競技場とも)も、他の大会の使用スケジュールもほぼ確定していたこともあり、実際に三ツ沢(球)で試合を行えたのは3試合だけ。他のホーム9試合は神奈川県内各地のグラウンドを転戦していった(横浜市では、その他に横浜国際で2試合、保土ヶ谷で1試合の計6試合。他に綾瀬海老名平塚の各市と愛川町で開いた。なおこの年は3回戦総当りのため、対戦カードによって同一カードのホームゲームが2試合行われることもあった)。

2001年以後

J2に昇格して以後、主として毎年8-9月を中心とした一部ホームゲームは関東近郊(特に東京都江戸川区陸上競技場江東区夢の島陸上競技場)で試合を行うことがある。これは三ツ沢(球)の芝生の養成が必要なためである。また2002年は三ツ沢(球)がワールドカップ日韓大会出場国の練習会場に使われ、やはり芝生の養成・生育が必要となったことから、主として4-9月の主催ゲームの多くは隣接する三ツ沢(陸)を会場として行った。また関東地方以外にも2003年に福島県営あづま陸上競技場でホームゲームを開催したことがある。ただし、この競技場のピッチの面積がJリーグ公式戦の基準より狭いことが判明したため開催はこの一度限りである。 なお2006年には国立霞ヶ丘陸上競技場でも2試合主催した。2007年も、同競技場で2試合主催した。

2007年に関して

  • J1リーグ戦の横浜市内主催開催15試合は三ツ沢(球)で9試合、日産スタジアムで6試合(他前述の国立2試合)行われ、ナビスコ杯は3試合とも三ツ沢(球)で行われた。
  • ただし、本来の本拠・三ツ沢(球)は10月27日大宮アルディージャ戦が同年度最終試合となり、その後はホームの試合に三ツ沢(球)は使用されない。
  • 4月14日、日産スタジアムでJ1昇格後最初のホームゲームとなる鹿島アントラーズ戦が行われたが、その時に、スタジアムの定員7万人をいっぱいに埋め尽くそうという「7万人プロジェクト」と呼ばれる企画を行った。選手らが練習場最寄駅である東戸塚駅前でビラ配りを行ったり、カズがテレビ出演するなどして盛り上げに努めたが、クラブ最多観客動員記録(当時)は更新するも、観客は19,367人と目標には遠く及ばなかった。
  • 6月30日に日産スタジアムで行われた「TOMAS Special MATCH」と銘打たれたジェフ千葉戦では43,117人を動員し、最多観客動員記録を大幅に更新した。
  • 12月1日最終節の浦和レッズ戦では千葉戦を上回る46,697人を動員し、クラブの最多観客動員記録をさらに更新した。ただし、この日は浦和のリーグ制覇がかかっていた試合でもあり、この日の観客の9割近くが浦和サポーターであり、横浜FCサポーターはホーム側ゴール裏とメインスタンドの一部しか占められなかった。
  • 観客動員が5,000人を下回る事もしばしばあり、中でも5月26日の大分トリニータ戦は週末の土曜日で晴天という絶好の状況だったにも関わらず観客動員は4,935人にとどまるなど、フロントの集客方針には首を傾げるサポーターも少なくない。さらに、チーム成績も振るわず降格も決定したため、来シーズン以降のサポーター離れなども危惧されている。

2008年

2009年

  • リーグ戦27試合のホームゲームのうち、10月までの23試合がニッパツ三ツ沢での開催。10月後半以後はニッパツ三ツ沢が改修工事などを予定しているため、東京都内で2試合(西が丘、国立で各1試合)、日産スタジアムで1試合を組んでいる。なお、もう1試合は当初開催地未定だったが駒沢に決まった。

2010年

  • リーグ戦18試合のホームゲームのうち、16試合はニッパツ三ツ沢球技場で開催予定。そのほか、9月の富山戦を国立競技場で、11月の札幌戦を日産スタジアムで開催予定である。

新聞の略称表記

横浜FCが日本フットボールリーグに在籍した2年間は「横浜FC」としてそのまま表示していたが、2001年にJ2入りが決まると「横浜C」として表記している。但し、朝日新聞日刊スポーツでは略さずに「横浜FC」と表記している。

3文字に略されるのは、totoにおいてチーム名が3文字以内で略記されることに由来する。横浜FCと横浜F・マリノスは「横浜」の次の文字がともに「F」であるため、その次の文字により横浜FCは「横浜C」、横浜F・マリノスは「横浜M」と区別して表記されることとなっている。また「横浜F」の表記ではフリューゲルスと混同される恐れがあること、フリューゲルスの名称の商標権者がマリノスであることなどを踏まえて略号を「C」にしたものとも考えられる。

歴史

1999年~2000年(JFL)

1999年

新クラブの結成に動いてから半年足らずでJFLで戦うためのチームを作る難事業に直面したが、2月に準会員としてのJFL参加が仮承認され<ref>正式には3月の日本サッカー協会理事会。準会員参加の条件として、同年のJFLで4位以内ならば翌年のJFLに正会員として参加し、5位以下に終われば地域リーグ所属クラブがJFL昇格をかけて争う全国地域リーグ決勝大会への参加を義務付けることになっていた。
またこの年の第79回天皇杯全日本サッカー選手権大会では、3回総当りの1巡目にあたる前期で上位3位までに入れば自動的にJFLシードで出場権獲得(結局1位で終了)となっていたが、準加盟扱いのためシード枠は与えられず、後日開催された神奈川県大会に出場しなければいけなかったが優勝して同県代表で天皇杯本戦出場を果たした</ref>、奥寺康彦GMリトバルスキー監督、阪倉裕二コーチ、そして選手には外国人選手パベル・ジェハークを含む元Jリーガー22人との契約が可能となった。クラブ初の公式戦となった4月25日のJFL第2節、横浜国際競技場に公式発表で1万1283人が集まったジャトコ戦では2-2の引き分けに終わったが(初ゴールは遠藤昌浩が記録)、その後は順調に白星を重ね(5月3日の第3節、三ツ沢球技場での水戸ホーリーホック戦で初勝利)、新JFLの初代優勝チームとなった<ref>なお、この年3位に入った水戸は「横浜FCは準会員」と主張し、「JFL正会員では(本田技研に次ぐ)2位」という解釈で翌年からのJリーグ参入を認められた。</ref>。また、第79回天皇杯では横浜F・マリノスのユースチームを下して神奈川県代表となり、3回戦でヴェルディ川崎に惜敗したが、パベルの2ゴールや川崎市等々力陸上競技場に駆けつけた多くのサポーターの存在などで、Jリーグのクラブに引けを取らない実力や人気を持つ事を示した。

2000年

横浜FCはJFL正会員となり、Jリーグ準会員として承認された。ソシオ制度を巡る内紛、責任企業不在による資金難などクラブ運営は迷走を始めたが、ライバルの本田技研から水原大樹田島宏晃を加えたチームは首位を独走した。10月8日のJFL後期第7節、国士舘大学戦に勝利し(5-3)、Jリーグ昇格条件の2位以内を確定した。続く10月22日のJFL後期第8節では静岡産業大学にも勝利して2年連続優勝を決めた。これにより、横浜FCは翌年からのJリーグ参加が正式承認された。しかし、独自のチームとして歩み始め「フリューゲルス」名称の譲渡を横浜F・マリノスに求めないとした横浜FCから離れる元フリューゲルスサポーターも現れ、横浜FCの観客動員数は減少した。

2001年~2006年(J2)

2001年

J2に参入した横浜FCは、バイエル・レバークーゼンのコーチに就任したリトバルスキーに代わって、前年までアルビレックス新潟を率いた永井良和を新監督に据えた。目立った補強はなくチーム自体の変動は少なかった。昇格チームとしては善戦したもののJ1昇格争いには遠く、シーズン途中で永井は辞任し、阪倉コーチの監督代行を経て信藤健仁がシーズン終盤の指揮を執ったが、12チーム中9位に終わった。なお、この年には川崎フロンターレと公式戦で7試合戦い、全て敗れている<ref>非公式ながら、同一シーズン中の最多敗戦・最多対戦記録。内訳はJ2リーグ4試合(うち1試合は延長Vゴール負け)、ナビスコ杯2試合(2回戦、横浜FCは1回戦で東京ヴェルディ1969に1勝1分で勝ち上がり)、天皇杯1試合(4回戦、横浜FCは3回戦でFC東京に勝利)。</ref>。

2002年

前年終盤から指揮を執る信藤は補強に着手し、期限付き移籍で獲得した迫井深也吉本岳史、経験豊富な廣長優志などを起用した。この年はJリーグ史上で最も攻撃面に人数を割いた "2-4-4" (2-4-3-1)、DFが2人でゴール前を守り、通常の4-4-2ならば両サイドの守備を固めるサイドバックがより前に位置して積極的に攻撃するというシステムだった。スペインのリーガ・エスパニョーラの攻撃性を愛好する信藤がこだわる戦術だったが、スペースを与えられた相手のサイド攻撃を誘発する結果を招き、勝ち点・失点数共に初のリーグ最下位となり、信藤はシーズン終了とともに退団した。なお、この年の終盤にはフリューゲルスで活躍していたアルゼンチン人DFのモネールが入団し、再び人気となった。

2003年

キャッチフレーズ:「ガムシャラ~原点を思い出せ。迷うな、負けるな、強くあれ!~」

横浜FCはチーム初代監督のリトバルスキーを再び招聘。後藤や有馬が引退し、廣長が移籍したため、新戦力として城彰二ルディマシューなどの大型補強を行った。しかし、チームはなかなか波に乗れず、シーズン途中には当時引退してコーチを務めていた後藤義一が急きょ現役復帰するなど混乱した。最終成績は年間3勝のみのサガン鳥栖を上回っただけの11位(12チーム中)と低迷。3失点以上の試合が13もあるなど、年間88失点を喫した守備陣に課題を残したシーズンであった。

2004年

キャッチフレーズ:「PLAYER'S POWER~勝利をつかめ~YOKOHAMA FC SPIRITS」

新たにジェフェルソントゥイード中島崇典などを迎え入れ、城をキャプテンにすえて前年度に続きリトバルスキー体制で臨んだ。開幕戦でベガルタ仙台に4-0で圧勝するなどスタートダッシュに成功、第17節まで川崎フロンターレ戦の1敗しか負けがなく、4勝12分1敗とし上位につけた。しかし非常に引き分けが多く、「負けないが勝てない」という状況に陥る。第18節に2敗目を喫するとそこから4連敗し、その後持ち直すが後半も引き分けの多さは変わらず、シーズン44試合の半数にあたる22試合引き分けというJ新記録を打ち立てた。J2昇格後最高順位の8位(12チーム中)となったが、負け試合を引き分けに持ち込んだかと思うと勝ち試合をあっさり追いつかれてしまうなど、強かったのか評価しづらい結果となり、勝つためにあと一歩が足りないシーズンであった。

2005年

キャッチフレーズ:「MAKE PROGRESS」

JAPANサッカーカレッジ監督などを務め、選手の育成に定評のあった足達勇輔を新たに監督に招聘。2004年度の勝ちきれない引き分け癖の克服と選手の更なるレベルアップが期待された。一方、選手補強は新人を中心に獲得し、ベテラン選手として佐藤一樹貞富信宏などを加えたチームは前年とほぼ変わらない戦力という評価が与えられていた。開幕戦を落とすものの、その後2勝2分と善戦する。しかし、そこから15試合勝ち星無しという泥沼状態に陥る。レオック社の増資引き受けによる事実上のオーナー交代の時期とも重なり、財政的な不安がなくなったフロントは方針を転換し、各チームで世代交代の影響を受けていた三浦知良山口素弘望月重良など経験豊富な元日本代表選手達を新たに獲得し、チームの強化を図った。特に山口の入団は、既に以前より少なくなっていたとはいえ、横浜FCを応援する元フリューゲルスサポーター、そして山口本人にとって、他の選手やクラブへの移籍とは少し違った意味を持っていた<ref>J'sゴール</ref>。

しかし、彼らの加入によりJ1昇格を命題とするような雰囲気が生まれ、足達監督招聘当初の目的である「チームの底上げ」よりも「勝つチーム」が優先され、結果的に若手選手のチャンスの芽を摘むことになった。チームの方針の転換はチグハグな選手起用にも影響が見られ、移籍効果も一時的に終わり、結局11位(12チーム中)で終了。サポーターからはクラブ目標の「早期のJ1昇格」への道筋が見えないという批判を受けた。

2006年

キャッチフレーズ:「夢に蹴りをつける。」

昨年度の結果から足達の去就が注目されたが、フロントは続投を決定。悲願のJ1昇格を果たすべく、長きにわたりクラブのシンボル的存在だった小野信義を解雇するなど、シーズン前に大量の選手の入れ替えを断行。新戦力としては室井市衛渡辺光輝鄭容臺吉野智行アウグストなど即戦力を多く獲得した。

しかし開幕戦でJFLから昇格した愛媛FCに0-1で敗れると、フロントは早々と足達の解任を決めた<ref>なお、同年中に足達は横浜FCのユース部門責任者に就任した。</ref>。フロントは昨年度の不振とキャンプからのチーム作りの遅れなどを理由としたが、Jリーグ史上最速の監督解任<ref>体調不良などにより、1試合も指揮をしないままの監督辞任は他クラブに例がある。</ref>に対してゴール裏に集うサポーターの多くは怒りを示し、ホーム開幕戦となった第2節のサガン鳥栖戦で横断幕掲示やコール斉唱などの応援行動をボイコットする抗議活動を行った。

同年にコーチとして横浜FCに入団し、Jリーグで初指揮となったこの鳥栖戦を1-1で引き分けた高木琢也新監督は守備の意識の改革に着手。そして、アウグストが次第にフィットしたこともありチームは快進撃を始めた。以後、6月2日の第19節水戸戦に0-1で敗れるまで、新監督就任以来15戦負けなし<ref>15試合で9勝6分。</ref>、連続無失点時間770分<ref>第10節の神戸戦以来から合計9試合で達成、連続完封は7試合。従来の記録は1993年の清水エスパルスが記録した731分で、これが現在でもJ1記録となっている。</ref>の2つのJリーグ新記録を作った。

その後も堅守をベースにした横浜FCの快進撃は止まらず、前年までJ1にいた柏レイソルヴィッセル神戸との昇格争いを続けた。第43節には(開幕直後を除いては)クラブ史上初めての首位に立つと、天王山と目された11月18日の第48節ではアウェーの直接対決で神戸から首位を奪い、最低でもJ1との入れ替え戦出場となる3位以内を確定した。

11月26日の第51節、横浜FCはアウェーの鳥栖スタジアムで鳥栖に勝利した。福岡空港にバス移動する最中に柏と神戸が共に勝利を逃した結果が入り、横浜FCのJ2初優勝とJ1昇格内定が決定した<ref>他チームの結果による「J1昇格(内定)決定」は史上初。奥寺GM・高木監督・各選手などは羽田空港でスーツ姿での記者会見を行い[1]、サポーターは両空港で歓喜に沸いた。</ref>。12月2日の第52節(最終節)は愛媛FCに2-0で勝利し、有終の美を飾った。この試合は既に現役引退を表明していた城にとって最後の公式戦となり、1アシストを記録した。J2全日程終了後の12月4日、Jリーグ理事会の承認を得てJ1昇格が正式に決定した。

2006年基本布陣

4-4-2 の布陣が敷かれた。敵陣に向かい左側の選手から列記する。

2007年(J1)

キャッチフレーズ:「勝つために、ここに来た。」

初のJ1での戦いに向け、フロントは再び大幅な選手の入れ替えを行った。 長年横浜FCを支えた北村知隆吉武剛など11人が抜けた一方で、新たに11人の選手を獲得。 昨シーズンに横浜FCの総得点61点のうち30得点を挙げた城とアレモンの2人が抜けた攻撃陣を補強するため、横浜F・マリノスから元日本代表MF奥大介東京ヴェルディ1969からシウバら即戦力を中心に獲得。 更には横浜Fマリノスとの交渉が物別れに終わった久保竜彦の獲得に成功し、高木監督は広島時代からその実力をよく知る久保中心のチーム作りを明言した。

J1開幕戦での浦和レッズ戦では1-2と惜敗したが、久保が40mのロングシュートを決めて大きな話題となり<ref>その際に久保が見せた喜びの表情や動作は話題となり、横浜FCではこれをデザインした手ぬぐいを販売した。</ref>、続く第2節では横浜F・マリノスとの「横浜ダービー」<ref> この2クラブのトップチームが対戦したのは、公式戦ではこの試合が初めて。プレシーズンマッチでは2006年のJリーグ開幕前、横浜FCのトップチームと横浜F・マリノスのユースチームは1999年の天皇杯神奈川県予選決勝で対戦(上記)している。また、「横浜ダービー」としては、マリノス対フリューゲルスの1998年のJリーグ以来だった。</ref>では1-0でJ1初勝利を挙げ、キャッチフレーズを実現させた。しかし、第3節に川崎フロンターレに0-6で大敗した後は、久保や奥らが怪我で戦列を離れ、外国人選手がチーム戦術にフィットしないなど、チームは低迷を続けた。また、すでにピークを過ぎたベテランスター選手をたくさん補強したことで、チームのスタメン平均年齢が30代越えとJリーグトップとなり、経験と洞察力は豊富であったが、逆にその選手の加齢からくるスタミナの低下での層の薄さは、今シーズンの低迷につながった。そのため層の薄さと怪我人の穴埋めのため平本一樹山田卓也などを獲得するが、前半戦は最下位で折り返した(また、このチームの当時の選手やスタッフなどの経歴を見ると、チームの3分の1が元ヴェルディの選手などである)。

中断期間中にさらに選手を補強し、巻き返しを図りたい後半戦だったが、再開初戦の横浜F・マリノス戦で1-8で敗れ、これが引き金となり、高木は後日解任(一方で三浦淳宏の獲得に関して高木とフロントとの確執が表面化したという事情もあった<ref>中日スポーツ 横浜FC、補強巡り内紛 高木監督「三浦淳の移籍に違和感」</ref>)。新監督にはジュリオ・レアルが就任したが、リーグ戦で1勝2分9敗という成績しかあげられず、チームの立て直しはできなかった。

10月20日の第29節において、同じ昇格組のヴィッセル神戸に3-0で敗れ、J1史上最速でJ2降格が決定した。残り5試合を残した状態での降格であり、これは2002年に残り4試合で降格が決定したコンサドーレ札幌の記録を更新した(ただし、札幌は2008年、J2に降格が決定したときに、この記録に並んだ)。この他、643分間連続無得点や20試合連続未勝利という不名誉な記録も樹立してしまう。だが、最終戦で首位であった浦和を1-0で破り、目の前での優勝を阻止した。

2008年~2009年(J2)

2008年

キャッチフレーズ:「夢のJ1は終わった。リアルなJ1への挑戦が始まる。」

任期満了に伴いジュリオ・レアルとは契約を更新せず、新監督にはクラブと3年契約を結んだ都並敏史が就任。

J2降格の影響は大きく、生え抜きの菅野孝憲内田智也などがJ1の各クラブへ移籍し、山口や奥が引退するなど21人がクラブを去り、土台からの作り直しを余儀なくされた。一方、三浦知は残留し、J2での史上最年長選手記録を更新した。

補強策として2006年水戸ホーリーホックで16得点を挙げたアンデルソン、同じく水戸で前年まで主将としてチームを牽引し、横浜FCには6シーズンぶりの在籍となったDF吉本岳史、2007年のJFL得点王御給匠東京ヴェルディ戸川健太などを獲得し、チーム構成は大きく変化した。

第1クールはアンデルソンが得点を量産する活躍もあり、上位につけるも第2クールになり徐々に失速。昇格争いからも早々に脱落し、第39節時点で昇格の可能性が消滅(最終順位は10位)。都並監督はシーズン終了を以って解任された。

リーグ終了後、チーム内得点王となる16ゴールを挙げながらもシーズン後半に精彩を欠いたアンデルソンが退団し、山田卓也滝澤邦彦などの経験豊富な選手、またチョ・ヨンチョル太田宏介、昨年大宮アルディージャレンタル移籍していた内田智也ら有望な若手が他チームに完全移籍するなど、主力選手の多くがチームを離れた。

2009年

キャッチフレーズ:「これからのサッカーが、ここにある

都並前監督に代わり山形・大宮などを率いた樋口靖洋が2年契約で監督に就任。

主力選手退団を穴埋めのため、ジェフユナイテッド市原・千葉に期限付き移籍していた早川知伸が復帰、韓国から劉孝眞名古屋グランパスから片山奨典、大宮から田中輝和が加入し、またレンタル移籍だった戸川健太須藤右介は完全移籍となり、難波宏明と並びチーム2位の7得点を決めた池元友樹もレンタル移籍期間延長となった。さらに4月には2006年から2007年7月まで在籍していた鄭容臺が約2年ぶりに復帰した。

この陣容で「J1復帰」を目標に掲げてスタートしたが、開幕から8試合勝利なし(3分5敗)と低迷。第9節(対水戸ホーリーホック)でようやく初勝利を手にしたものの、以降は5月30日の愛媛戦に勝利するまで1分けを挟む7連敗を喫した。その後も勝ち点を奪えない状況が続いていたが、元韓国代表の安孝錬の加入と小野智吉の怪我からの復帰でチーム状況は好転。特に安の所でボールが収まるようになり前線にタメが出来るようになったチームは、上位相手にボールポゼッションで上回るなど復調をとげた。

しかし、結果的に順位は上がらず、天皇杯でも敗退が決まると、クラブはリーグ戦2試合を残した段階で成績低迷と強化方針の食い違いを理由に樋口監督との2年契約を1年で打ち切ると発表した<ref>「カナロコ」(神奈川新聞サイト)2009年11月26日付 「横浜FC新監督に岸野氏有力、今季限りで鳥栖退任」 http://news.kanaloco.jp/localnews/article/0911260006/]</ref>。

2010年

キャッチフレーズ:「昇格~再び一緒にあの舞台に

新監督として前サガン鳥栖監督の岸野靖之が就任し、補強のために前所属のサガン鳥栖から高地系治柳沢将之武岡優斗渡邉将基、また鳥栖に在籍していたガイナーレ鳥取シュナイダー潤之介、釜山アイパークの金裕晋を完全移籍で獲得。そして前ベガルタ仙台のFWサーレスや仙台、新潟などで活躍したシルビーニョといった外国籍選手も獲得した。 そして昨年からの課題であった得点力不足を解消するために東京ヴェルディの元日本代表大黒将志をレンタル移籍で獲得することに成功。 今シーズンのクラブの並々ならぬ昇格に対する決意の表れたチーム編成となった。 開幕戦は、ギラヴァンツ北九州ファジアーノ岡山ザスパ草津に圧倒的な力の差を見せて、開幕3連勝でスタートを切った。

また、2010年から保土ヶ谷区にある横浜市水道局の西谷浄水場内にある体育施設の事業者となる事が発表された。横浜FCは10年間貸借し、天然芝と人工芝が各1面のサッカーグラウンド、体育館や管理棟を改装するクラブハウスなどを整備して、トップチームに加えてジュニアチームやジュニアユースチームの練習場としても活用する事になった<ref>NIKKEI NET 2009年11月26日 「浄水場の隣に横浜FC練習場 市の財源確保策に応募」[2]</ref>。

成績

チーム成績・歴代監督

年度所属順位勝点試合得点失点得失天皇杯監督
1999年JFL優勝552418335732+253回戦ピエール・リトバルスキー
2000年優勝612220206624+422回戦
2001年J29位4344151285881-234回戦永井良和阪倉裕二信藤健仁
2002年12位3544811254381-383回戦信藤健仁
2003年11位42441012224988-393回戦ピエール・リトバルスキー
2004年8位52441022124250-85回戦
2005年11位45441015194864-164回戦足達勇輔
2006年優勝9348261576132+293回戦足達勇輔/高木琢也
2007年J118位163444261966-475回戦高木琢也/ジュリオ・レアル
2008年J210位50421117145156-54回戦都並敏史
2009年16位44511111294370-273回戦樋口靖洋
2010年36岸野靖之

獲得タイトル

2006年
1999年2000年


対戦成績

こちらを参照→[3]

「特徴」

ユニフォーム

Template:ユニフォームの色2

チームカラー

チームカラーは水色白色。ユニフォームは旧フリューゲルス時代と同じように当初は白をベースとしたユニフォームを第1ユニ、第2ユニは水色ベースだったが、2003年からそれを入れ替え、水色ベースを第1ユニ、白は他チームと同じように第2ユニとした。

2007年から2008年まで使用されていたユニフォームは胴体部分に紺の横縞が12本入っているのが特徴。 ユニフォームサプライヤーのヒュンメルとスポンサーでアパレルメーカーのユナイテッドアローズとのコラボレーション作品で、12本の縞はチームとサポーターの絆の象徴を表している。

ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
LEOCLEOC2009年〜2005年は袖、
2006年〜2008年は背中
背中レオックジャパンレオックジャパン2010年〜
GENOVAGENOVA2010年〜
パンツなし

ユニフォームサプライの遍歴

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1999年Socio FuliestaBOSCHCITIBANK-Mizuno
2000年Socio FuliestaBOSCHCITIBANK-Mizuno
2001年NISSOBOSCHセキド-hummel
2002年-/norika.net日土地セキド-hummel
2003年FEALS日土地ふくしまの米-hummel
2004年-/NISSO日土地ふくしまの米-hummel
2005年NISSOLEOCふくしまの米明日佳グループhummel
2006年NISSOライフコミューンLEOCLMhummel
2007年NISSOTOMASLEOCLMhummel
2008年NISSONojimaLEOCライフコミューンhummel
2009年LEOC明日佳グループフィートM3Dhummel
2010年LEOCGENOVAレオックジャパン-hummel

オフィシャルテーマソング

THE ALFEEはJリーグ創生期に横浜フリューゲルスのオフィシャルソング『Victory』を提供していた。その関係もありフリューゲルスの合併消滅には心を痛め、横浜FC誕生の折にも楽曲提供を行い、テーマソングの売り上げは全てチーム運営費へという形で支援している。

マスコット

創設以来マスコットキャラクターは置いていなかったが、結成10周年を迎えた2008年12月、公式HPに「オフィシャルクラブマスコット」が登場して名称を公募することを発表した。<ref>横浜FCオフィシャルクラブマスコット 誕生!!名前をつけてください!! </ref>。 モチーフは「宇宙人」。 2009年1月18日の新体制発表記者会見にて名前が「フリ丸」に決まったと発表された。

脚注

Template:脚注ヘルプ

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関連項目

thumb|200px|thumb|横浜FC LEOCトレーニングセンター

外部リンク

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