徳川慶喜

出典: Wikipedio


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徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、御三卿・一橋徳川家の第9代当主。江戸幕府第15代征夷大将軍(将軍在職:慶応2年12月5日1867年1月10日) - 慶応3年12月9日1868年1月3日))。

唯一、将軍としての執務を江戸城で行なわなかったほか、大政奉還や新政府軍への江戸城明け渡し(無血開城)などを行なった江戸幕府最後の将軍。内大臣従一位勲一等公爵貴族院議員

目次

名前

「慶喜」は、「よしのぶ 」或いは通称として「けいき 」(有職読み)とも読む。将軍在職中、江戸幕府の公式な文書等には「よしひさ 」と読んだとの記録が残っている。本人によるアルファベット署名や英字新聞に「Yoshihisa 」の表記も残る。出身地である水戸では「よしのぶ」と呼ばれる事が多いが、余生を送った静岡では「けいき」と呼ばれる事が多い。

生前の慶喜を知る人によると、慶喜本人は「けいき様」と呼ばれるのを好んだらしく、弟・徳川昭武に当てた電報にも自分のことを「けいき」と名乗っている。慶喜の後を継いだ七男・慶久も慶喜と同様に周囲の人々から「けいきゅう様」と呼ばれていたといわれる。「けいき様」と「けいきさん」の2つの呼び方が確認でき、現代においても少なくなりつつあると思われるが「けいきさん」の呼び方が静岡に限らず各地で確認できる。司馬遼太郎は「『けいき』と呼ぶ人は旧幕臣関係者の家系に多い」とするが、倒幕に動いた肥後藩関係者でも使用が確認できる。

生涯

幼年期

天保8年(1837年)9月29日、江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれる。母は正室・吉子女王<ref>第3代・家光以来となる正室を生母とした将軍である。</ref>。幼名は七郎麻呂(しちろうまろ)。「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)などの一部史料では「七郎麿」との表記になっているが、慶喜本人は「七郎麻呂」と署名している。

男子は国許で養育するという斉昭の教育方針に則り、生後7ヶ月にして水戸に移り、一橋徳川家を相続するまでの多くを同地で過ごす間、会沢正志斎らから学問・武術を教授されている。 慶喜の英邁さは当時から注目されていたようで、当初は斉昭も他家へ養子には出さず、長男・慶篤の控えとして手許に残そうと考えていた。

一橋家相続

弘化4年(1847年)8月1日、幕府より水戸藩に七郎麻呂<ref>当時は松平昭致(あきむね)と名乗っていた。</ref>を御三卿・一橋家の世嗣とする旨の台命が下る。これを受けて七郎麻呂は9月1日に一橋家を相続し、12月1日に第12代将軍・徳川家慶から偏諱を賜わり慶喜(『よろこぶが2つでめでたい』の意で)と名乗る。

家慶は度々一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、老中・阿部正弘の諫言を受けて断念している。

将軍継嗣問題

Template:Main 嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなかったため、将軍継嗣問題が浮上する。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬一橋派と、紀州藩徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥南紀派が対立した。

一橋派は阿部正弘、島津斉彬が相次いで亡くなると勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は徳川慶福と決した。

同年、井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に登城し直弼を詰問するが、翌・安政6年(1859年)に隠居謹慎処分となる(安政の大獄)。この日は三卿の将軍面会日であり、斉昭や松平慶永と違って不時登城ではなく罪状は不明のままの処分であった。

なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨折りは申し訳ないが、天下を取ってから失敗するよりは、取らないほうがいい」という内容の手紙を斉昭に送っている。

将軍後見職

thumb|200px|禁裏御守衛総督時代の慶喜 安政7年(1860年)3月3日・桜田門外の変における大老・井伊直弼の死を受け、万延元年(1860年)9月4日に謹慎を解除される。 文久2年(1862年)、島津久光率いる薩摩藩兵に護衛されて勅使・大原重徳が江戸に入り、「徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽(慶永)を大老に登用すべし」という孝明天皇の勅命が下される。 7月6日、幕府は慶喜を将軍後見職、春嶽を政事総裁職に任命した。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行なった。

文久3年(1863年)には将軍・徳川家茂の先駆けとして上洛、攘夷を迫る朝廷との交渉に手を尽くした。孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸しての攘夷祈願において、将軍(家茂)が天皇から節刀を受けてしまえば攘夷を決行せざるを得なくなるので、「風邪発熱」(仮病)と称して家茂に拝謁を急遽取りやめさせた。

八月十八日の政変長州藩を中心とする尊皇攘夷派が排斥されると、公武合体佐幕両派による参与会議に参加すべく再び上洛。しかし会議がまとまらないと見るや、故意に中川宮朝彦親王らとの酒席で泥酔し、居合わせた伊達宗城、松平春嶽、島津久光を罵倒、さらに中川宮に対し「島津からいくらもらっているんだ」などと暴言を吐いて体制を崩壊させるなど、手段を選ばないとも言える交渉を行なった。

以後は京都に留まり朝廷から禁裏御守衛総督に任じられ、守護職・松平容保会津藩主)、所司代・松平定敬桑名藩主)と共に勤皇の志士や公家の取り締まりにあたる(一会桑体制)。天狗党の乱では慶喜を支持していた武田耕雲斎ら実家・水戸藩の家臣たちを切り捨てる冷徹さも見せた。

元治元年(1864年)の禁門の変では御所守備軍を指揮し、鷹司邸を占領した長州軍を自ら攻撃(歴代の徳川将軍家の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ果敢な人物でもある)。それに続く第一次長州征伐が終わると、無勅許状態にあった日米修好通商条約の勅許を得るために奔走し、条件付ながら勅許を得ることに成功した。

将軍職

thumb|200px|軍服姿の慶喜 慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は敗退。その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大坂城で薨去する。慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、休戦協定の締結に成功する。

家茂の後継に推されたが、慶喜はこれを固辞。8月20日に徳川宗家は相続したが将軍職就任は拒み続けた。その後、老中らが将軍就任を懇請したが受諾せず、12月5日にようやく将軍宣下を受けて将軍に就任した。これはいわば恩を売った形で将軍になることで、政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが事実である<ref>家近p.116。</ref>。さらに、家茂が後継に指名した田安亀之助(のちの徳川家達)を推す大奥を中心とする反慶喜勢力や慶喜の将軍就任を強硬に反対する水戸藩の動きなど、慶喜自身に向けられた強い反感が将軍職固辞に大きく関わっていた<ref>家近p.p.113-117。</ref>。

慶喜はフランス公使・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置し、老中の月番制を廃止した。また、実弟・徳川昭武パリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだ。

薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年(1867年)10月14日、政権返上を明治天皇に上奏し、翌日勅許された(大政奉還)。当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたと言われる。 Template:Main

戊辰戦争

Template:Main しかし、倒幕を目指す大久保利通岩倉具視の画策で、12月には王政復古の大号令が出され、慶喜には辞官(内大臣の辞職)と納地(幕府領の返上)が命ぜられた。慶喜は衝突を避けるべく大坂城に退去し、諸外国の公使らを集めて徳川の正当性を主張、さらに朝廷に運動して辞官納地を温和な形にする。翌・慶応4年(1868年)に薩摩藩が江戸市中で行なった挑発に対して挙兵。会津・桑名藩兵を使って京都を封鎖するも、年が明けて1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、兵を置き去りにし、陣中に伴った愛人と共に軍艦開陽丸で江戸へ退却した。慶喜がこのような行動を取った動機については幾つかの説があるが、今に至るも不明である。

間もなく、慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、東征大総督熾仁親王に率いられた新政府軍が東征を開始する。慶喜は、小栗忠順を初めとする抗戦派を抑えて朝廷への恭順を主張。2月には勝海舟に事態収拾を一任して自らは上野の寛永寺大慈院において謹慎する。また、徳川宗家の家督は養子である田安亀之助(のちの徳川家達)に譲ることになった。

江戸総攻撃の前に行なわれた勝海舟と新政府軍参謀・西郷隆盛との交渉により、江戸城が無血開城されると慶喜の身柄は水戸へ移された。藩校弘道館の一室にて引き続き謹慎した後、7月には徳川家は駿府に移された。これにより、徳川家による政権は幕を閉じた。

以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は新政府によって廃止され、復活することはなかった。慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となった。

余生

thumb|200px|晩年の慶喜 明治2年(1869年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った前将軍とは違い、政治的野心は全く持たず、写真狩猟投網囲碁謡曲など趣味に没頭する生活をおくり、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。

明治30年(1897年)に東京巣鴨に移り住む。翌年には有栖川宮威仁親王の仲介により、皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて、35年ぶりに政治に携わることになった。

明治43年(1910年12月8日、七男・慶久に家督を譲って貴族院議員を辞し、隠居。再び趣味に没頭する生活をおくる。

大正2年(1913年)に感冒にて死去。享年77(満76歳0ヶ月25日)は徳川歴代将軍の中でも最長命であった。

年譜

※明治5年までは天保暦長暦の月日表記。

人物

幼年時代

  • 武芸学問を学ぶことに関しては、最高の環境で生まれ育ち、様々な武術の中から、手裏剣術に熱心で、手裏剣の達人だった。大政奉還後も、毎日額に汗して手裏剣術の修練を行ない、手裏剣術の達人たちのなかで最も有名な人物に数えられる。
  • 寝相が悪く、父・徳川斉昭が徳川家後継の際に問題になるとして寝相を矯正するために寝るときにはの両側に剃刀の刃を立てていた(単なる脅しであって、本当に怪我する事の無いように、と眠った時を見計らって剃刀は取り外していたらしいが)<ref>『徳川慶喜―将軍家の明治維新(増補版)』9頁</ref>。一方成人後の睡眠時には、暗殺対策として、妻妾二人と「Y」の字になるよう三人で同衾していたという逸話も伝えられる。
  • 慶喜には幼少の頃の写真と言われるものがあるが、慶喜の幼少の時期、日本に写真機はまだなかったと考えられるため、慶喜本人のものであるかどうかは疑わしい。

一橋家当主として

  • 病に倒れた家茂の見舞いに訪れたことがあり、その時は普通に会話したという。

将軍として

  • 英邁さで知られ、実父・斉昭の腹心・安島帯刀は、慶喜を「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し、幕威回復の期待を一身に背負い鳴物入りで将軍位に就くと、「権現様の再来」とまでその英明を称えられた。慶喜の英明は倒幕派にも知れ渡っており、特に長州藩の桂小五郎は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していた。
  • 鳥羽伏見の戦い後の「敵前逃亡」など惰弱なイメージがあったが、大政奉還後に新たな近代的政治体制を築こうとしたことなどが近年クローズアップされ、加えて大河ドラマの放送などもあり、再評価する動きもある。
  • 坂本龍馬は大政奉還後の政権を慶喜が主導することを想定していた<ref>松浦玲『坂本龍馬』</ref>。しかし、慶喜本人が龍馬という人物の存在を知ったのは明治に入ってからであった。慶喜に限った話では無く、生前の龍馬の知名度は、維新後のそれに比べて非常に低かった。司馬遼太郎の作品では「大樹(将軍)公、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」との龍馬の評価が引用されるが、この一文は後年、龍馬と面識がなかった渋沢栄一らによって書かれた『徳川慶喜公伝』で紹介されているだけで、龍馬自身の手紙や史料に出てくるものではない。

新政府軍との戦い

  • 鳥羽伏見の戦いの最中に大坂から江戸へ退去したことは「敵前逃亡」と敵味方から大きく非難された。この時、家康以来の金扇の馬印は置き忘れたが、お気に入りの愛妾は忘れずに同伴していた、と慶喜の惰弱さを揶揄する者もあった。しかしこの時、江戸や武蔵での武装一揆に抗する必要があったことや、慶喜が朝敵となったことによって諸大名の離反が相次いでおり、たとえ大坂城を守れても長期戦は必至で、諸外国の介入を招きかねなかったことから、仕方がなかったという意見もある。
  • 新政府から「朝敵」とされるとすぐに寛永寺に謹慎した事などから、天皇や朝廷を重んじる心ある者だと評価される(尊王思想である水戸学や、母親が皇室出身であることなどが多分に影響していると思われる)一方で、主君として敵に毅然とした対応を示さなかったため、「弱腰」とも言われた。

明治維新後

200px|thumb|狩猟姿の慶喜 [[ファイル:Yoshinobu Tokugawa 7.jpg|200px|thumb|弓を引く慶喜。弓術は晩年まで嗜んだ。]]

  • 恭順謹慎、江戸無血開城などにより、無血革命に近い状態で政権移譲できたことから、近代日本の独立性が守られ、維新への功績は大きいと評価された。
  • 実業家の渋沢栄一は一橋家当主時代に家臣である平岡円四郎の推挙によって登用した家臣で、明治維新後も親交があった。渋沢は慶喜の晩年、慶喜の伝記の編纂を目指し、渋る慶喜を説得して直話を聞く「昔夢会」を開いた。これをまとめたのが『昔夢会筆記』である。座談会形式で記録されている一部の章では、老齢の慶喜のいわば肉声に触れることができる。歳のせいにして都合の悪い質問をはぐらかしたり、「島津久光はあまり好きじゃなかった」「鍋島直正はずるい人だった」と本音を漏らすあたり、彼の性格と当時の心境が窺える。慶喜の死後、こうした資料を基に『徳川慶喜公伝』が作られた。
  • 朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺徳川家墓地でも寛永寺徳川家墓地でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。これは孝明天皇の陵墓が質素であることに感動したためである(『德川慶喜公伝』)。
  • 赦免後の慶喜が、徳川家や自分に命を捧げた旧幕臣に思いを寄せることも無く、悠々自適の生活を送っていることについて、当時の老中・板倉勝静は後に「慶喜と行動を共にしたことを後悔している」と述べている。

逸話

  • 父・斉昭と同じく薩摩藩豚肉が好物で、豚一様(ぶたいちさま・豚肉がお好きな一橋様の意)と呼ばれた。西洋の文物にも関心を寄せ、晩年はパンミルクを好み、カメラによる写真撮影・釣り自転車顕微鏡・手芸(刺繍)などの趣味に興じた。将軍時代には西周からフランス語を習ったこともあったようだが、こちらは挫折した。
  • 静岡に住んでいる時、家臣達と一緒(家臣達は走っていた)に愛用の自転車でサイクリングした。その際、美人の女性に見とれて看板にぶつかったTemplate:要出典。その自転車を購入した自転車店は、現在の静岡市葵区紺屋町にあり、近年まで成業していた。維新後貧窮に苦しむ旧幕臣の生活を顧みず、当時珍しかった自転車を楽しそうに乗り回していたので旧幕臣からは憎まれた。
  • 明治政府から自動車プレゼントされ、運転免許をとって静岡市内をドライブしたが、蕎麦屋と衝突する交通事故を起こしたTemplate:要出典
  • 東京・墨田区の向島百花園には慶喜が書いた「日本橋」の文字が彫られた石柱が保存されている。実際に橋として使われていたものである。
  • 趣味としての写真撮影を日常としたが、カメラ撮影の技術はあまり上達しなかった。写真雑誌にもたびたび投稿したが、なかなか採用されなかった。こうした趣味人生活の友であったのが実弟・昭武であった。なお、曾孫の徳川慶朝はフリーのカメラマンであり、彼によって慶喜の撮影分も含めて徳川慶喜家に所蔵されていた写真類が発見され、整理と編集を行なった上で出版された。写真家の長野重一によれば腕前はセミプロ並みとの評価であるが写真集『将軍が撮った明治』(朝日新聞社)を見る限り、写真が芸術性を帯びてくるのは昭和の初期からであり、たんに日記代わりとして撮っていたと、評価している。
  • 北海道江差町に、名前に因んだ「慶喜トンネル」が存在する。(国道229号

家庭・親族

安政2年12月3日、一条美賀と結婚(維新後に美賀子と改名)。美賀との間には女子(瓊光院殿池水影現大童女)が安政5年7月16日誕生するも、7月20日に早世。以後、美賀との間に子女は生まれず、明治になって誕生した10男11女は皆、二人の側室との間に儲けた子女である。公爵となり徳川慶喜家を継いだ七男・慶久や、勝海舟の婿養子となった十男・精、伏見宮博恭王妃となった九女・経子などである。なお、慶久の子女には、徳川慶光高松宮宣仁親王妃となった喜久子らがいる。明治天皇は義理の弟に当たる。(正室の一条美賀子が昭憲皇太后の義姉であるため)

  • 正室:一条美賀(維新後に美賀子と改名)(今出川公久娘、一条忠香養女、天保6年7月19日~明治27年7月9日)
  • 側室:新村信松平政隆娘、新村猛雄養女、明治38年2月8日死去)
    • 長男:敬事(明治4年6月29日-明治5年5月22日)
    • 長女:鏡子(明治20年3月23日結婚、徳川達孝夫人、明治6年6月2日-明治26年9月29日)
    • 三女:鉄子(明治23年12月30日結婚、徳川達道夫人、明治8年10月27日-大正10年12月10日)
    • 五男:池田仲博(明治23年2月25日池田輝知養子、明治10年8月28日-昭和23年1月1日)
    • 六男:斉(明治11年8月17日-明治11年11月28日)
    • 六女:良子(明治13年8月24日-明治13年9月29日)
    • 九女:経子(明治30年1月9日結婚、伏見宮博恭王妃、明治15年9月23日-昭和14年8月18日)
    • 七男:徳川慶久(明治17年9月2日-大正11年1月22日)
    • 十一女:英子(明治44年4月29日結婚、徳川圀順夫人、明治20年3月22日-大正13年7月5日)
    • 十男:勝精(明治32年1月20日勝海舟婿養子、明治21年8月23日-昭和7年7月10日)
  • 側室:中根幸中根芳三郎長女、大正4年12月29日死去)
    • 次男:善事(明治4年9月8日-明治5年3月10日)
    • 三男:琢磨(明治5年10月5日-明治6年7月5日)
    • 四男:徳川厚(明治7年2月21日-昭和5年6月12日)
    • 次女:金子(明治8年4月3日-明治8年7月22日)
    • 四女:筆子(明治28年12月26日結婚、蜂須賀正韶夫人、明治9年7月17日-明治40年11月30日)
    • 五女:脩子(明治11年8月17日-明治11年10月8日)
    • 七女:浪子(明治28年12月7日結婚、松平斉夫人、明治13年9月17日-昭和29年1月13日)
    • 八女:国子(明治34年5月7日結婚、大河内輝耕夫人、明治15年1月23日-昭和17年9月11日)
    • 十女:糸子(明治39年5月19日結婚、四条隆愛夫人、明治16年9月18日-昭和28年10月11日)
    • 死産:男子(明治17年8月22日死産)
    • 八男:寧(明治18年9月22日-明治19年7月2日)
    • 九男:徳川誠(明治20年10月31日-昭和43年11月11日)
    • 死産:女子(明治24年6月2日死産)

徳川慶喜に関する作品

小説
映画
ドラマ
NHK大河ドラマ
その他のテレビドラマ

脚注

<references/>

関連項目

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縁のある都市
側近

参考文献

  • 渋沢栄一編、大久保利謙校訂 『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』 平凡社〈平凡社東洋文庫〉、1966年 ISBN 4-582-80076-9
  • 渋沢栄一編 『徳川慶喜公伝』 平凡社〈東洋文庫全4巻〉、初版1918年
  • 徳川慶喜写真、徳川慶朝監修 『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集』 朝日新聞社、1986年 ISBN 4-02-255559-9
  • 徳川慶朝 『徳川慶喜家の食卓』 文藝春秋〈文春文庫〉、2008年
    • 『徳川慶喜家にようこそ わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔』 文藝春秋〈文春文庫〉、2003年
    • 『徳川慶喜家カメラマン二代目』 角川oneテーマ新書、2007年
  • 松浦玲 『徳川慶喜―将軍家の明治維新 増補版』 中央公論社〈中公新書〉、1997年 ISBN 4-12-190397-8
  • 家近良樹 『徳川慶喜』 吉川弘文館〈幕末維新の個性1〉、2004年 ISBN 4-642-06281-5
  • 星亮一、遠藤由紀子 『最後の将軍徳川慶喜の無念 大統領になろうとした男の誤算』 光人社、2007年
  • 久住真也 『幕末の将軍』 講談社〈選書メチエ〉、2009年 幕末歴代将軍4人を扱う。
  • 田中惣五郎 『最後の将軍徳川慶喜』 中央公論社〈中公文庫〉、1997年 初版1939年
  • 岩下哲典編 『徳川慶喜 その人と時代』 岩田書院、1999年



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