サンフレッチェ広島

出典: Wikipedio


Template:サッカークラブ サンフレッチェ広島(サンフレッチェ ひろしま、Sanfrecce Hiroshima)は、広島市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

目次

概要

Template:基礎情報 会社 1991年Jリーグ加盟(オリジナル10のひとつ)。ホームタウン広島市。前身は自動車メーカー・マツダ(旧・東洋工業)のサッカー部であるマツダサッカークラブ

運営法人は1992年4月に設立。設立当初はマツダ系の、近年は家電量販店エディオン(旧デオデオ)系の人物が社長に就任している。

チーム名の「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ」はイタリア語で「矢(の複数形:frecce)」を意味し、戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんでいる。

チームカラーは、紫(青紫、VIOLET)。クラブスローガンは、「WE FIGHT TOGETHER」。

チームマスコットは、中国山地に生息するツキノワグマをモチーフとした「サンチェ君とフレッチェちゃん」。

チームエンブレム2005年1月10日(公式発表)に設立当初のものから現在のものに変更された(ロゴは変更なし)。<ref>Template:Cite web</ref>

ホームスタジアムは広島ビッグアーチ。練習は主に安芸高田市吉田サッカー公園、試合前や天候などの理由によりビッグアーチやその隣の補助競技場も利用している。以前の使用場所については下記スタジアムの項および練習場・キャンプ地の項を参照。

なお、下部組織についてはサンフレッチェ広島の下部組織を参照のこと。

グッズ・チケット等は広島市中区大手町にあるV-point、あるいはオフィシャルネットショップ「e-Vpoint」で購入できる。

以下に現在の株主を示す。

歴史

前史(マツダ時代)

Template:Main 1938年に創部された前身の東洋工業蹴球部は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると2度に渡りJSL2部へ降格してしまう。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更<ref group="注釈">1980年代、社名変更やJSL1部昇降格を機に数度正式名称を変えている。1981年から「マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部」、1984年から「マツダスポーツクラブサッカー部」、1986年から「マツダサッカークラブ」。</ref>。1982年今西和男がサッカー部総監督に就任、のちに日本サッカー界に多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した。<ref name="RCCIMANISHI">Template:Cite web</ref><ref name="HIHYO0612">GM考察 第1章 広島のドン:今西氏のクラブGM論(加部究)、サッカー批評vol.33、2006年12月、ISBN 4575478938 </ref>

低迷の原因が地方のハンディによる有力新人獲得の不足と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを強化し、中国サッカーリーグに参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた。<ref name="POICHI">「ぽいち 森保一自伝―雑草魂を胸に」、森保一西岡明彦共著、フロムワン、2004年2月刊、ISBN 4757210159</ref>(サンフレッチェ広島の下部組織#前史参照)。また選手のみならず指導者育成にも着手し、ここから小林伸二をはじめとする数多くの指導者を育てた<ref name="NIKKANCOLUMN">Template:Cite web</ref>。ここで確立されたさまざまな育成重視の方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている。

すでに動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた<ref name="HIHYO0612" /><ref name="POICHI" />。

Jリーグ創設前夜

プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請されたが、母体となるマツダは財政的理由から降りようとした。そこへ、野村尊敬県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民により参加要望運動が起き、それらの代表となった竹下虎之助県知事とマツダの古田徳昌社長とのトップ会談が行われた。会談翌日の1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。関西以西、中国地方では唯一の参加となった。<ref name="RCCIMANISHI" /><ref name="IKKYUDIARY">Template:Cite web</ref>

同年11月プロクラブ化に向け、旧広島県立美術館2階ロビーの四畳半ほどのスペースに、スタッフ4人からなる設立準備室を置いた<ref name="SIGMA200905">「SIGMA REPORT」、紫熊倶楽部2009年5月号、P.20-21</ref>(チーム名やチームカラー決定経緯については下記記録・出来事内の「チーム名」項を参照)。

1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(後のデオデオで現エディオンWEST)・中国電力広島銀行等59団体の出資により設立。筆頭株主はマツダとなり、初代社長にはマツダ社長を退任した古田徳昌が就任、本社事務所を広島クリスタルプラザ4階に置いた。当初、母体となったマツダが財政的に支えきれそうになかったため<ref name="IKKYUDIARY" />、Jリーグ参加条件であった「チーム名に企業名を入れない」意味を企業に説明して、出資団体を募った。その当時、オリジナル10のほとんどが親会社100%出資でチームを設立していたため、この官民の出資による設立はJリーグの方向性を示したと言える。

1992年 - 1994年(バクスター時代)

1992年に、スチュワート・バクスターが監督に就任。イワン・ハシェックパベル・チェルニー盧廷潤ら能力重視で独自路線の外国人補強を行った。フジタから高木琢也(マツダ時代の1991-1992年シーズンから加入)、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。

当初は引退しコーチをしていたヤン・ヨンソン松田浩望月一頼を現役復帰させるほど選手層が薄く、1992年のJリーグヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位と不甲斐ない成績を残してしまった。しかし徐々に戦術が浸透すると、高木・前川など日本代表クラスの選手や、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活き活きと活躍しだし、1994年には見事サントリーシリーズで初優勝を果たす。

この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは片野坂知宏佐藤康之柳本啓成森山佳郎と、いずれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを浅くとり裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神で広島サポーターのみならず、多くのJリーグサポーターを魅了した。<ref name="HIHYO0612" /><ref name="POICHI" />

しかし同年ニコスシリーズになると、高木に徹底マークが着いたため攻め手がなくなり<ref name="HIHYO0612" />、組織的でオートメーション化したパスサッカーが逆に相手にパス展開を読まれてしまうようになり、トーレ・ペデルセンをCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下していった。

その結果、Jリーグチャンピオンシップではヴェルディ川崎に敗戦、惜しくも年間優勝には届かなかった。

1995年 - 1996年(ヤンセン時代)

チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して1995年、ハンス・オフトの推薦<ref name="HIHYO0612" />でオランダ人のビム・ヤンセン監督が就任する。また、同年6月の取締役会で元マツダ副社長の信藤整の社長就任が決定した。

ジョン・ファンルーンピーター・ハウストラサントスらを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した。しかしあまりにも変わりすぎたため、ほとんどの選手たちはこれについていけず、さらには主力の高木・森保は怪我から満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った<ref name="HIHYO0612" /><ref name="POICHI" />。その後、3-6-1にシステム修正するも、成績は10位以下まで落ち込んでしまった。

前年度優勝した事により総年俸が上がり人件費が増加するものの、今年度は成績低迷により観客動員が減少したためクラブ財政を圧迫したこともあり、1995年シーズン終了後、システムについていけない選手を次々と放出<ref name="HIHYO0612" />。風間にいたっては「選手として何一つ得る物がない1年だった」とはき捨て退団。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山などが退団したことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例してさらに観客動員低下につながって行った<ref name="TYUGOKU971104">Template:Cite web</ref>。

その中でヤンセンはレギュラー起用した上村健一を初め、桑原裕義笛真人森秀昭久保竜彦ら若手を積極的に起用した。特に路木龍次はU-23アトランタ五輪代表を経て、日本代表にまで上りつめた。

リーグでは結局不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。

1997年 - 2000年(トムソン時代)

Jリーグバブルの崩壊によって経営的な陰りを見せ始め、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた1997年バルセロナオリンピックで名を上げ、若手育成に定評があったスコットランドエディ・トムソンが就任する。

同年末、クラブ経営難はピークに達し、母体であるマツダもフォード・モーター主導で経営建て直し中であったためクラブへさらに資金投入するわけにもいかず、結果クラブは経営危機に陥る<ref name="TYUGOKU980408">Template:Cite web</ref>。Jリーグの中でも最初に表面化したため、マスコミからは「クラブ消滅」とまで煽られた<ref name="HIROKEI">Template:PDFlink広島経済大学)</ref>。 経営建て直しのためクラブ側は主力選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍金を得るため完全移籍で放出されることとなった<ref name="TYUGOKU971102">Template:Cite web</ref>。結果、高木・森保・路木・柳本と次々と移籍していった。これに対し、サポーターは流出阻止のため抗議活動を行うものの、森保だけが完全からレンタル移籍に変わった<ref name="POICHI" />のみだったため失望し、更に観客動員は減少していった<ref name="TYUGOKU971104" />。クラブ消滅の噂は新人スカウトにも影響し、本契約寸前で他チームと契約する選手も出た。

そこへ、経営建て直しに家電量販店のデオデオの介入が決定、1998年6月の取締役会で久保允誉の社長就任が決定した<ref name="HIROKEI" />。久保允誉のもとチーム運営は改善され、同年8月本社事務所を現在の広島西飛行場ターミナルビル1階に移転、同年11月には吉田サッカー公園完成、観客動員も徐々に増え、2000年度には6期ぶりの黒字となった。

一方チームは、限られた予算のなか他チームで構想外となった選手を中心に補強、藤本主税沢田謙太郎伊藤哲也吉田康弘山口敏弘らを安く獲得しながらも、久保竜彦・下田崇服部公太高橋泰らの若手を起用していった。また、トムソン自らスカウティングしたイアン・クルーク、自身が持つオーストラリアへの強いパイプを生かしてグラハム・アーノルドアウレリオ・ヴィドマートニー・ポポヴィッチハイデン・フォックススティーブ・コリカら外国人選手も補強した。

財政難からまともに戦力が整わなかったため、就任当初は5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開。オズワルド・アルディレス(当時清水エスパルス監督)から「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ。」<ref>Template:Cite web</ref>と言われるほどであった。一時はJ1参入決定戦圏内まで低迷したが、2ndステージで持ち直し回避できた。

就任3年目の1999年に至って堅守速攻のカウンターサッカーが熟成。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強ともといわれた3バック、チームの攻撃を担った藤本、新たなるエース久保竜彦の覚醒によって、次々と強豪チームを撃破<ref>Template:Cite web</ref>。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである森崎和幸の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ。翌2000年、更なる上位進出を目指したが、得点力不足が響き肝心なところで勝ち星を失う試合が続いた<ref>Template:Cite web</ref>。しかし森崎和が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった。

2001年(ヴァレリー時代)

4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した2001年、クラブはより攻撃的なサッカーを目指すために、ロシアヴァレリー・ニポムニシを新監督に招聘した。当時Jリーグで唯一3トップを採用し<ref>Template:Cite web</ref>、超攻撃戦術への大転換を図った。久保竜・大木勉・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った。<ref>Template:Cite web</ref>

残留に向けオレグ・パシニンセルゲイ・スカチェンコを補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した。すると日本代表にも選ばれた久保竜彦と藤本、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・駒野友一、森崎和幸・浩司兄弟、トゥーリオらの若手の活躍もあり、J1残留に成功。しかもその年の2ndステージは3位と、優勝した94年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった。<ref>Template:Cite web</ref>

ところが同年11月、ヴァレリーは夫人の病気を理由として急遽辞任する<ref group="注釈">後に、フロントとのチーム方針を巡る意見の相違から、好条件を提示された中国・山東魯能監督に就任するための狂言と判明。</ref>。この際、ヴァレリーが新監督に推薦<ref name="TYUGOKU020717">Template:Cite web</ref>したロシア人ガジ・ガジエフを、クラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった。<ref name="TYUGOKU02">Template:Cite web</ref>

2002年(ガジエフ/木村/小野時代)

2002年、新監督ガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを「自分の戦術に合わない」とばっさりと放出。さらにキャンプでも選手たちの心を全く掴むことができずチームはバラバラのまま、またさらにはキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい<ref>Template:Cite web</ref>、計算できるCBがまったくいない最悪な状況でシーズンに突入した。 そのツケはすぐに回り、チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、ミロや上村の怪我で急遽獲得したビロングの新外国人も軒並み期待外れに終わった。結局ガジエフは第8節終了後に健康上の理由により辞任。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった。<ref name="TYUGOKU020717" /><ref name="TYUGOKU02" />

同年7月、コーチを務めていた木村孝洋が昇格する形で監督に就任、これがクラブ史上初の日本人監督となった。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにもリスクがあり、消極的な采配に終始し毎試合システムや選手を入れ替えたため、さらにチームは混迷した。また主力の久保竜彦と藤本もコンディション不良による低調なパフォーマンスに終始し、他チームで構想外となった選手をレンタルで獲得するも期待はずれに終わってしまう。同年9月、小野剛をヘッドコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になるが結局勝ち点を伸ばせず、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJ2降格が決まった。<ref name="TYUGOKU02" />

同年12月、責任を取って木村は辞任<ref name="TYUGOKU02" />。後任には小野が監督に昇格し、会見の場で「1年目にはJ1復帰、3年目にはJ1で優勝争い」という『3ヵ年計画』を発表した<ref>Template:Cite web</ref>。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し天皇杯を3連勝、ベスト4入りを果たした。

同年末、長年クラブ運営にかかわってきた今西和男がJ2降格の責任を取って現場から離れ<ref name="RCCIMANISHI" />、元Jヴィレッジ副社長の高田豊治ゼネラルマネージャーに就任した。

2003年 - 2006年(小野時代)

J2降格を受け主力の久保竜彦と藤本の二人は移籍してしまったが、そのほかの主力は残留させることに成功、一方でサンパイオリカルドらのJで実績のあるブラジル人を獲得した。こうして迎えたシーズンは、1stレグ11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしの当時のJ2記録を樹立し序盤は独走した。だが次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し(このときの詳細については2003年J2第43節・最終節を参照)、1年でJ1返り咲きを決める。<ref>Template:Cite web</ref>

J1復帰後の2004年、上村・桑原・高橋などのベテラン・中堅を次々に放出し、森崎兄弟・駒野を中心とするチームの若返りに着手、高校生Jリーガーの高萩洋次郎前田俊介高柳一誠なども起用された。一方で補強では後手に回り、小村徳男ベット盛田剛平などベテラン中心の補強となった。チームは堅守を武器に健闘するものの、得点力の低さから勝ちきれない試合が続き、結果13引き分けと当時の年間最多引き分け記録を作ってしまった。<ref>Template:Cite web</ref>

翌2005年、就任3年目を迎え優勝争いの公約を果たすため積極的な補強に動く。佐藤寿人茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たち、ジニーニョガウボンなどブラジル人を獲得。新キャプテンに就任した森崎和、前年から起用してきた前田などの若手が融合し、チームは快進撃を続け一時は2位にまで浮上した。しかし、その後は下田の長期離脱や他チームの台頭もあり、最終的には7位でシーズンを終えた。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン守備陣は鉄壁で、前半戦を終えた時点でどの試合も0分~45分の間は無失点という驚くべき記録を残し、佐藤寿は久保竜の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取り、J1日本人得点王にも輝いている。<ref>Template:Cite web</ref>

同年には駒野が東アジア選手権から代表に定着、佐藤寿もシーズン終了後に代表に選出された。

2006年、昨年足りなかった部分をウェズレイ戸田和幸らJリーグ実績のあるベテランで補強し更なる上位進出を狙った。しかし、より高レベルのサッカーを目指して導入した中盤をフラットとする4-4-2が全く機能せず、開幕から守備が崩壊しリーグ戦10試合未勝利(クラブワースト記録)と低迷、第8節終了後に小野は責任を取って辞任した。<ref>Template:Cite web</ref>

2006年 - 2007年(望月/ペトロヴィッチ時代)

後任には、GKコーチの望月一頼ドイツW杯本大会による中断期間までの暫定で就任した。望月は、前回降格した2002年の反省や、さらに中断までのリーグ4試合の間にできるだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択。守備に難のある選手をスタメンから外し、攻撃は佐藤寿の決定力に賭けた。これには一部のサポーターのみならず一部選手からも批判の声が上がるものの、このサッカーを終始貫くことにより、残留争いに優位に立てることとなる。リーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督のオーストリアミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した<ref>Template:Cite web</ref>。

新監督のペトロヴィッチは3-5-2を採用、DFラインからのビルドアップを最重視し本来はボランチを本職とする戸田・森崎和をセンターバックで起用、青山敏弘柏木陽介の若手を抜擢、この時期からウェズレイがチームにフィットし佐藤寿との抜群のコンビを見せ始め、最終的にはチーム総得点50のうち7割を二人でたたき出した<ref group="注釈">ウェズレイ16得点、佐藤寿は日本人得点王となる18点。</ref>。結果、第31節でJ1残留を決定、最終的には10位で終了した。<ref>Template:Cite web</ref>

また同年、ドイツW杯本大会に駒野が代表選出、サンフレッチェから初のW杯本大会の日本代表メンバーとなった。

2007年、前々年から続いた積極的な補強と相次ぐ監督交代がクラブ財政を圧迫したため実のある補強ができず、ほぼ現有戦力で戦うこととなった<ref>Template:Cite web</ref>。同年には第三者割当増資を行いデオデオが筆頭株主となった<ref name="SANFRE070926" />。シーズン序盤は前年からの好調をそのまま維持したが、頼みのウェズレイと佐藤寿の2トップが他チームに研究されると得点力が徐々に低下、財政およびフロント指揮権<ref group="注釈">2006年に組織再編を行い織田秀和強化部長が実質的な現場のトップとなったが、最終的な決定権は久保允誉社長に委ねられていた。ただ久保は本業であるエディオン社長の激務もあり、迅速な決定が下せない状況だった(ASSIST2007年冬号、6-9頁)。</ref>の問題から主な補強がイリアン・ストヤノフのみに止まり、控え組の底上げができていなかったことから主力を固定したため、A代表および年代別代表招集も重なりコンディションが落ちはじめてた。その結果守備が崩壊、同シーズンJ1ワーストの71失点の16位で終え、その後行なわれた京都サンガF.C.とのJ1・J2入れ替え戦に敗れ、「2度目のJ2降格」が決定した。

これに対しクラブ幹部はペトロヴィッチの戦術と選手掌握力を評価し、J2降格チームとしては異例の監督留任を決定<ref name="SPORTSNAVI081112">Template:Cite web</ref>。同年の天皇杯ではこれまでの不調が嘘のような快進撃を見せ、2000年以来となる8年ぶりの決勝へ進出した。

同年末、J2降格を受け組織を再編、社長の久保允誉が責任を取って辞任し会長に、元デオデオ取締役の本谷祐一が社長に新任、会長と社長を残しすべての常任取締役は退任した<ref>久保允誉インタビュー、ASSIST2007年冬号、6-9頁</ref>。また、降格原因の一つとなったフロント陣の編成を改め、決定権の迅速化<ref group="注釈">今まで久保がエディオンの社業と兼任していたクラブ社長業を、本谷がクラブ専任で行うこととなった。また、「強化本部」を軸とする1本部5部制から、トップチームの強化や育成普及などを担当する「管理強化本部」と営業や運営や広報などを担当する「事業本部」の2本部7部制を採用。管理強化本部長は本谷が兼務、事業本部長はマツダからの出向の取締役が就任した。</ref>を図った<ref name="TYUGOKU080201">Template:Cite web</ref>。

2008年 - (ペトロヴィッチ時代)

これ以降、主力に常に怪我人が続出し、戦術も1トップや時にはFWを置かない0トップを採用する状況にまでなった。しかし戦術変更が功を奏し、その中で青山敏弘・柏木陽介・高萩洋次郎・森脇良太佐藤昭大槙野智章中林洋次など若手が台頭<ref name="SPORTSNAVI081112" />、補強を同様の戦術に慣れたオシムチルドレンを中心に獲得したため、選手層の厚みにつながった。

2008年、降格によりウェズレイが退団、駒野友一がジュビロ磐田に引き抜かれたものの、監督留任によりほとんどの主力が残留し結果として戦力維持に成功し、さらに久保竜彦が6年ぶりに復帰した。同年3月のゼロックス・スーパーカップでは、PK戦のすえ勝利。これにより1994年のステージ優勝以来、2度目の「日本一」の称号を手にするとともに、大会初の「J2クラブによる優勝」を成し遂げた。またリーグ戦でも、J2史上初の「全節首位での優勝」・「9月中での優勝」、J2史上2チーム目となる「勝ち点100」を達成した。天皇杯でもその好調を維持しベスト8へ進出した。<ref name="SPORTSNAVI081112" />


J1復帰の2009年、即戦力MFミハエル・ミキッチを獲得するも現有戦力で戦う路線は継続、熟成したチーム戦術で躍進し、一時は優勝争いにも絡み、シーズン開幕前の下馬評を覆す大躍進を遂げ、最終的にはリーグ戦を4位で終えた。ちなみにこれはJ2からの昇格チームとしては最高順位記録。特筆すべきは、シーズンを通して森崎兄弟やストヤノフなど長期離脱者が相次いだにも関わらずこの順位で終えたことである。特にGKは正守護神として目されていた佐藤昭大が怪我で離脱。その後は中林洋次が台頭。また、下田崇も控えには復帰したものの、立場的には第4GKのルーキー原裕太郎までもがリーグ戦・カップ戦で先発デビューするほどだった。天皇杯では3回戦で敗退したが、J1リーグ戦3位のガンバ大阪が優勝したため、同4位の広島は繰り上がりで翌年のAFCチャンピオンズリーグへの出場権を獲得した。<ref group="注釈">前年度のJ1上位3チームならびに天皇杯優勝チームに翌年のAFCチャンピオンズリーグ出場権が与えられるが、J1上位3チームのいずれかが天皇杯を優勝した場合、J1第4位チームに繰り上がりで出場権が与えられる</ref>(前身大会を含めれば1969年アジアチャンピオンズトーナメント=3位入賞 以来41年ぶり2回目。チャンピオンズリーグ発足以後では初出場)<ref>日本サッカー協会、AFCチャンピオンズリーグ2010 サンフレッチェ広島が出場権獲得</ref>


2010年AFCチャンピオンズリーグに出場するチームは、橋内優也平繁龍一徳島ヴォルティス)、内田健太愛媛FC)、佐藤昭大鹿島アントラーズ)がレンタル移籍するものの、西川周作(完全移籍)、山岸智山崎雅人(レンタル移籍)と即戦力の補強をした。サンフレッチェ広島は、地方クラブであることから、資金力が乏しく、育成型クラブとして成長してきたが、AFCチャンピオンズリーグに出場する今季は、例年になく、積極果敢に補強を行い充実した戦力を整えた。


2月24日、ホーム広島ビッグアーチで記念すべきAFCチャンピオンズリーグ2010山東魯能との初戦を0-1で落とすと、続く2試合も敗れ3連敗してしまう。4戦目で初勝利を挙げ、最終戦では前年王者の浦項スティーラーズに勝利するも3勝3敗で初のACLは予選敗退に終わる。国際試合においてはボールポゼッションでは試合を支配するものの、試合を決定できる場面を作り出せない決定力不足を露呈している。またポストプレーの技術に長けたフォワードがいないために、肝心の前線でボールが収まらずに跳ね返えされてしまうことも多いため決定機を作り出せないことも多い。世界と闘うに当たって課題の一つとされる。

年度別成績・歴代監督

リーグ戦

年度所属順位試合勝点勝利敗戦引分得点失点他公式戦監督
年間
(チーム数)
ステージ
1993 J サントリー5位
(10)
6位18-99-2324- Template:Flagicon バクスター
J ニコス5位18-99-3125
1994 J サントリー2位
(12)
優勝22-175-4426 チャンピオンシップ
準優勝
J ニコス4位22-1210-2731
1995 J サントリー10位
(14)
10位26391313-3933- Template:Flagicon ヤンセン
J ニコス12位2628917-2843
1996J14位
(16)
-30301020-3660-
1997 J 1st12位
(17)
10位162188-2223- Template:Flagicon トムソン
J 2nd13位1615511-2127
1998 J 1st10位
(18)
13位1719710-2233-
J 2nd9位172498-2319
1999 J1 1st8位
(16)
6位15279603018-
J1 2nd8位15217712425
2000 J1 1st11位
(16)
10位15197711915-
J1 2nd11位15186812325
2001 J1 1st9位
(16)
13位151351002533- Template:Flagicon ヴァレリー
J1 2nd3位15248703627
2002 J1 1st15位
(16)
15位151031111426- Template:Flagicon ガジエフ
Template:Flagicon 木村孝洋<ref group="注釈">1st第1節から1st第8節 ガジエフ、1st第9節から2nd最終節 木村</ref>
J1 2nd14位15165821821
2003J22位
(12)
-4486258116535- Template:Flagicon 小野剛
2004 J1 1st12位
(16)
13位15153661519-
J1 2nd11位15163572123
2005J17位
(18)
-34501310115042-
2006J110位
(18)
-3445131565056- Template:Flagicon 小野剛
Template:Flagicon 望月一頼
Template:Flagicon ペトロヴィッチ<ref group="注釈">第1節から第8節 小野、第9節から第12節 望月、第13節から最終節 ペトロヴィッチ</ref>
2007J116位
(18)
-343281884471 入替戦 降格 Template:Flagicon ペトロヴィッチ
2008J2優勝
(15)
-4710031479935 スーパーカップ
優勝
2009J14位
(18)
-3456158115344-
2010J1
(18)
-34 ACL2010
予選敗退

リーグ杯

年度所属ナビスコ杯監督
1992J予選敗退 Template:Flagicon バクスター
1993J予選敗退
1994J1回戦敗退
1995J開催せず Template:Flagicon ヤンセン
1996J予選敗退
1997J予選敗退 Template:Flagicon トムソン
1998J予選敗退
1999J12回戦敗退
2000J12回戦敗退
2001J13回戦敗退 Template:Flagicon ヴァレリー
2002J1予選敗退 Template:Flagicon ガジエフ
2003J2出場権なし Template:Flagicon 小野剛
2004J1予選敗退
2005J1予選敗退
2006J1予選敗退 Template:Flagicon 小野剛、Template:Flagicon 望月一頼<ref group="注釈">グループリーグ第2戦まで小野、第3戦以降望月</ref>
2007J1準々決勝敗退 Template:Flagicon ペトロヴィッチ
2008J2出場権なし
2009J1予選敗退
2010J1

カップ戦

年度所属天皇杯監督
1992J2回戦敗退 Template:Flagicon バクスター
1993Jベスト4
1994Jベスト8
1995J準優勝 Template:Flagicon ヤンセン
1996J準優勝
1997J4回戦敗退 Template:Flagicon トムソン
1998Jベスト8
1999J1準優勝
2000J14回戦敗退
2001J14回戦敗退 Template:Flagicon 木村孝洋(代行)<ref group="注釈">ヴァレリー帰国に伴い代行として木村が指揮</ref>
2002J1ベスト4 Template:Flagicon 小野剛
2003J24回戦敗退
2004J14回戦敗退
2005J15回戦敗退
2006J15回戦敗退 Template:Flagicon ペトロヴィッチ
2007J1準優勝
2008J2ベスト8
2009J13回戦敗退
2010J1

クラブ記録

タイトル

なおオリジナル10の中で唯一、日本国内3大タイトル(Jリーグ(J1)年間、Jリーグカップ、天皇杯)を一度も獲得していない。

アラカルト

公式戦初試合
  • リーグ戦:2-1(1993年5月16日、Jサントリー第1節対ジェフユナイテッド市原戦)
  • リーグ杯:2-3(1992年9月6日、ヤマザキナビスコカップ第1節対読売ヴェルディ戦)
  • カップ戦:2-0(1992年12月5日、天皇杯1回戦対同志社大学)
1試合最多
  • 得点
    • リーグ戦:7-1(2008年9月7日、J2第34節対FC岐阜戦)
    • リーグ杯:7-0(2009年5月30日、ナビスコカップ第4節対大宮アルディージャ戦)
    • カップ戦
      • 7-2(1999年12月26日、天皇杯準決勝ヴェルディ川崎戦)
      • 7-0(2000年12月10日、天皇杯3回戦水戸ホーリーホック戦)
  • 失点
    • リーグ戦:0-7(2009年10月25日、J1第30節川崎フロンターレ戦)
    • リーグ杯:0-5(1993年10月16日、ナビスコカップ対ガンバ大阪戦)
    • カップ戦:0-4(2001年12月16日、天皇杯4回戦対清水エスパルス戦) 
公式戦連続記録
  • 勝敗
    • 連勝:10試合(J2リーグ戦のみ、2003年3月23日-2003年5月10日)
    • 未敗戦:16試合(13(J2)+3(カップ)、2008年8月23日-2008年12月6日)
    • 引分:4試合(J1リーグ戦のみ、2004年10月3日-2004年10月31日)
    • 未勝利:14試合(1(カップ)+10(J1)+3(リーグ杯)、2005年11月3日-2006年4月29日)
    • 連敗:7試合(J1リーグ戦のみ、2002年7月24日-2002年8月31日)
  • 得失点
    • 得点:25試合(7(J1)+13(J2)+1(リーグ杯)+4(カップ)、2008年5月11日-2009年4月26日)
    • 無失点:7試合(J2リーグ戦のみ、2003年9月6日-2003年10月11日)
    • 無得点
      • 4試合(2(J)+2(チャンピオンシップ)、1994年11月16日-1994年12月2日)
      • 4試合(Jリーグ戦のみ、1995年8月26日-1995年9月9日)
    • 失点:17試合(12(J1)+3(リーグ杯)+2(カップ)、2005年11月27日-2006年4月29日)

個人記録

タイトル

Jリーグ
リーグ杯
  • MVP
    • なし
  • ニューヒーロー賞
    • なし
その他

アラカルト

試合出場記録
  • 最年少出場:高萩洋次郎(2種登録)、16歳8ヶ月3日(2003年4月5日、J2第4節対湘南ベルマーレ戦)
  • 最年長出場:小村徳男、36歳8ヶ月0日(2006年5月6日、J1第12節対アビスパ福岡戦)
  • 1シーズン最多:柳本啓成、55試合(50(J)+5(カップ)、1995年)
  • 公式戦連続出場:服部公太、143試合(74(J1)+44(J2)+14(リーグ杯)+11(カップ)、2002年11月30日-2006年4月22日)
    • リーグ戦のみ:服部公太、218試合(133(J1)+85(J2)、2002年11月30日-2008年11月30日)
ゴール記録
  • 最年少ゴール:高柳一誠(2種登録)、17歳10ヶ月10日(2004年7月24日、ナビスコカップ第6節対東京ヴェルディ1969戦)
    • リーグ戦:高萩洋次郎、18歳0ヶ月19日(2004年8月21日、J1・2nd第2節対セレッソ大阪戦)
  • 最年長ゴール:ウェズレイ、35歳4ヶ月28日(2007年9月16日、J1第25節対浦和レッドダイヤモンズ戦)
  • 1シーズン最多:佐藤寿人、31ゴール(28(J2)+2(カップ)+1(スーパーカップ)、2008年)
  • 1試合個人最多:高橋泰、4ゴール(2003年4月19日、J2第7節対横浜FC戦)
  • 公式戦初:森保一(1992年9月6日、ヤマザキナビスコカップ第1戦対読売ヴェルディ戦、前半25分)
    • リーグ戦:風間八宏(1993年5月16日、Jサントリー第1節対ジェフユナイテッド市原戦、前半1分)
  • 最速記録:佐藤寿人、開始8秒(2006年4月22日、J1第9節対セレッソ大阪戦)
その他
  • 最長在籍年数:下田崇、16年(1994年-)
  • 公式戦連続フルタイム出場:服部公太、143試合(上記連続出場と同じ)
    • リーグ戦のみ:服部公太、171試合(127(J1)+44(J2)、2002年11月30日-2007年10月6日)
  • 兄弟アベックゴール:森崎和幸森崎浩司(2004年5月5日、J1・1st第8節対セレッソ大阪戦)

国際記録

国際試合

親善および練習試合は除く
開催年月日 大会名 対戦相手 会場 スコア 勝敗
2010年2月24日ACL2010グループリーグTemplate:Flagicon 山東魯能泰山広島ビッグアーチ0-1敗戦
2010年3月10日ACL2010グループリーグTemplate:Flagicon 浦項スティーラース浦項スティールヤード1-2敗戦
2010年3月24日ACL2010グループリーグTemplate:Flagicon アデレード・ユナイテッドハインドマーシュ・スタジアム2-3敗戦
2010年3月30日ACL2010グループリーグTemplate:Flagicon アデレード・ユナイテッド広島ビッグアーチ1-0勝利
2010年4月13日ACL2010グループリーグTemplate:Flagicon 山東魯能泰山山東省体育中心体育場3-2 勝利
2010年4月27日ACL2010グループリーグTemplate:Flagicon 浦項スティーラース広島ビッグアーチ 4-3勝利

国際大会出場選手

W杯

夏季五輪

U-20W杯

U-17W杯
アラカルト
  • 日本人初招集
  • 日本人初国際Aマッチ出場
    • 高木琢也:1992年5月31日対アルゼンチン代表戦
    • 森保一:同上
  • 在籍時日本人最多キャップ:高木琢也:45試合(1992年-1997年)
  • 在籍時日本人最多ゴール:高木琢也:27ゴール(1992年-1997年)

対戦成績

対戦通算成績

Template:Main2

相性

その他、詳細なデータは外部サイト(サンフレッチェ広島記録集)を参照。

リーグ戦ホームゲーム観客動員数

略記について
年度所属1試合
平均
試合数・
年間入場者
最多動員 最少動員
動員数試合日対戦会場動員数試合日天気対戦会場
1993J16,64418299,586 36,8635月22日(土)V川崎BA9,67212月8日(水)名古屋S
1994J17,19122378,195 42,5059月3日(土)V川崎BA8,52311月16日(水)磐田S
1995J11,68926303,903 20,2653月29日(水)V川崎BA7,01211月11日(土)名古屋BA
1996J8,46915127,040 18,8633月20日(水)鹿島BA4,49111月6日(水)福岡BA
1997J6,53316104,534 10,5048月20日(水)V川崎BA4,1564月16日(水)BA
1998J8,33917141,769 17,0208月8日(土)鹿島BA4,1325月2日(土)市原S
1999J19,37715140,650 18,2639月15日(祝)横浜FMBA3,8124月10日(土)曇/雨G大阪S
2000J18,86515132,978 20,87611月23日(祝)磐田BA4,1754月5日(水)BA
2001J19,91615148,741 19,42311月24日(土)鹿島BA5,1614月14日(土)福岡BA
2002J110,94115164,111 18,40411月23日(土)BA6,4813月16日(土)京都BA
2003J29,00022198,004 26,1589月23日(祝)新潟BA3,4714月9日(水)水戸S
2004J114,80015222,005 29,3325月2日(日)浦和BA5,2514月14日(水)名古屋BA
2005J112,52717212,960 26,0839月18日(日)浦和BA6,2307月13日(水)磐田BA
2006J111,18017190,066 17,5643月5日(日)鹿島BA5,5457月26日(水)曇/雨甲府BA
2007J111,42317194,199 22,6759月15日(土)浦和BA6,0376月20日(水)川崎BA
2008J210,84021227,631 19,3499月23日(祝)愛媛BA4,6226月25日(水)徳島BA
2009J115,72317267,299 27,1138月22日(土)浦和BA9,4795月16日(土)山形BA
  • Jリーグ全体からすると芳しいとは言えない状況である。
  • 広島ビッグアーチおよび広島スタジアムはほとんどの観客席に屋根がないため、天候が崩れると観客数に減少傾向がでる。BAは降雨だけでなく降雪することもあるため、結果「春先」あるいは「梅雨期」「水曜日開催」に最小動員となる傾向にある。
  • Jリーグ開始時から最小動員が1万人を切っており、さらに90年代後半のJリーグバブル崩壊と共に急激に動員数が減っていることから、当初クラブ自体が営業努力を疎かにしていたことが分かる。そのほかの動員急減理由として、94年ステージ優勝メンバーである主力数人を放出したことやリーグ成績の低迷などが挙げられる。

Template:Main2

エピソード・アラカルト

記録・出来事

チーム名

決定に直接携わった今西和男<ref name="RCCIMANISHI" />およびフロントスタッフ<ref name="SIGMA200905" />は次のように語っている。

チーム名は公募したところ、県花である「モミジ」やそこから連想する「赤」、そして「毛利元就」に関するもので占められていた。その中で最多案ではなかったが、元就の故事・三本の矢にちなんだ「スリーアローズ」がクラブスタッフの目に止まった。ただ商標登録されていたため、それをもじり「サンフレッチェ」という名をスタッフ会議で作りだした。サンを日本語のまま残したのは、セイント(saint)を意識したとも。
次にチームカラーは、当初マツダSCのチームカラーである「青」を考えていたが、他チームと色が被らないようにというJリーグ側の意向もあり、スタッフ会議でチームカラーの一新も決定した。そこで、広島サッカー界の名門・広島一中(現国泰寺高校)のチームカラーにあやかり、聖徳太子の冠位十二階で最上位を象徴し高貴なイメージがあるため、更にはナイトゲームで最も映える色として事前調査で判明したため、「紫」に決定した。
そこからチーム名を「パープル」にする提案も出たが、語感の悪さから却下された。

また、川淵三郎の著書『虹を掴む』の中にも以下のようなエピソードがある。

川淵と広島球団社長との酒席で、広島社長がチーム名は「高貴な色」を付けた「広島パープル」に決定したと話した。川淵は愛称的なチーム名を期待していたが色だけのチーム名に難色を示し、その場にいた芸者らも川淵の意見に賛同して改名を考慮、結果としてチーム名は公募され、最も多かった毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんだ「スリーアローズ」をさらにもじり、「サンフレッチェ」の名前が誕生した。

語感がよいためか、1993年当時は組織内のトリオを「○○のサンフレッチェ」と自称するものも出てきた。

チェアマン杯破損

1994年6月11日磐田スタジアムで行われたジュビロ磐田戦で、広島は2-1で勝利し、サントリーシリーズ優勝を決めた。ところがこの際、授与された高級クリスタル製のチェアマン杯(HOYAクリスタル特製)をサポーターに見せてやろうと、チームトレーナーが踏み台に上がろうとしたとき、興奮しすぎたため誤って転倒して手から落とし、チェアマン杯は粉々に破損。この珍事は翌日のスポーツ新聞の1面を飾った。クラブはその場でJリーグ側に陳謝、その後クラブには新しいチェアマン杯が送られた。

この件以降、チェアマン杯は金属製となった。また、割ってしまった旧チェアマン杯は一旦溶かされてペンダントとなった<ref>2009年10月16日付エル・ゴラッソ</ref>。

ちなみに当時その模様を伝えるニュースでは、森山佳郎が持ってサポーターの方へ向かい広告ボードで躓いた状況が放送されたため、多くのファンは「割ったのは森山」と考え、森山本人も以後会う人全員から疑われて否定に必死だったという。

ユニフォーム忘れ

1995年4月1日熊本市水前寺陸上競技場横浜フリューゲルス戦が行われた。この試合は当時九州にJリーグチームがなく、熊本県をホームタウンとほぼ同等の権限を持った特別活動地域の1つとしていた横浜Fのホームゲームなので、広島はアウェーゲームで使う白の2ndユニフォームを持参していた。ところが横浜Fの1stユニフォームは白。競技場に着いて初めてこのことに気付いた広島は球団事務所に紫の1stユニフォームを熊本まで届けるように頼んだが、当然ながら間に合うはずもない。そこで広島は横浜Fの了解を得て、競技場に来ていたサポーターからレプリカユニフォームを借り、それにテープで背番号を貼って試合に臨んだ。借りたユニフォームは当然サポーターのものなので、当時胸スポンサーだったマツダや背中スポンサーだった住建産業のロゴが描かれていないものもあった(自分が書いたサイン入りのユニフォームを着た選手もいた)。ちなみにパンツとストッキングは2ndユニフォームを使用したので、上から紫・紫・白という組み合わせだった。

試合は延長前半12分にイワン・ハシェックVゴールで広島が勝ったものの、後日Jリーグから制裁金が課せられた。

ちなみにユニフォームを貸したサポーターには、この試合でベンチ入りした監督・選手全員のサイン入り色紙がプレゼントされた。

初のJ2クラブ「日本一」達成

2008年3月1日国立霞ヶ丘陸上競技場で行われたゼロックス・スーパーカップにおいて、この年からJ2へ降格する広島が、前年のJリーグ年間王者ならびに天皇杯覇者であった鹿島アントラーズに勝利し、2部制ができた1999年以降初めてJ2のクラブがJ2リーグ戦優勝以外のタイトルを獲得する偉業を達成した。

初の「ベストメンバー規定」違反による罰則

Template:Main2 2009年6月3日、ナビスコ杯・対大分トリニータ戦において、先発メンバーのうち10人がJリーグ規約第42条違反、俗に言うベストメンバー違反とされ、同年9月15日のJリーグ理事会にて制裁金を科された。

ただ、広島は事前にリーグ側に規約について問い合わせを行っている事もあり、逆に規約の問題点も浮き彫りとなった。

トリックペナルティーキック

2010年3月6日、広島ビッグアーチで行われたJ1第1節対清水エスパルス戦において、前半3分広島はPKを獲得した。この際、槙野智章ペナルティーマークにボールを置きゴールに対して背を向け<ref group="注釈">槙野はPK時に独特の構えを行っており、相手GKに対し背中を向けた状況から助走に入る。</ref>てペナルティーアークの外に出た。その時、他方から走り込んできた佐藤寿人がそのままシュート、ゴールし得点が認められた。しかしその後JFAの松崎康弘審判委員長はこのゴールについて、「PKを行う競技者は特定されなければならない」とする競技規則第14条に違反するとして「誤審である」と判断した。これを受け広島側も公式に謝罪したが、試合が成立しているため、結果が覆ることは無かった。<ref>Template:Cite web</ref><ref>Template:Cite web</ref>

その約2ヶ月後の同年4月27日、広島BAで行われたACL2010グループリーグ第6節対浦項スティーラース戦において、後半35分に得たPKで、PKキッカーとして立った佐藤寿が、後方から走り込んだ槙野へパスし、槙野がゴールを決めたプレーを行っている<ref>Template:Cite web</ref>。このケースはヨハン・クライフ[1]ロベール・ピレス[2]など過去に同様のものがあるため問題にはならなかった。

交流

吉田町(安芸高田市)

チーム名は上記のとおり毛利元就の故事にちなんで命名されたもので、このことから元就ゆかりの地である高田郡吉田町(現:安芸高田市)とサンフレッチェとの交流が始まった。その後交流が進み、吉田サッカー公園完成や、毎年清神社に必勝祈願参拝するなど、現在の吉田町はサンフレッチェのマザータウンとなっている。 Template:Main2

横川町(西区)<ref name="TYUGOKUSALON070608">Template:Cite web</ref>

2007年3月、広電バスがホームゲーム開催日に、JR・広電横川駅とビッグアーチを結ぶ臨時シャトルバスを開通した。このとき、サポーターが横川町商店街に、ポスターの張り出しやのぼり旗を掲げるようお願いして回った。これが契機となり、商店街ではサンフレッチェを応援する動きが始まった。試合前日には、横川駅にてクラブ職員および選手が試合告知活動を行っている。

他のJリーグクラブへの協力

発足当初、兵庫以西で唯一のJリーグクラブだったことから、広島は後に参入した西日本のクラブに積極的にノウハウ伝達や選手移籍などの支援を行ってきており、アビスパ福岡やヴィッセル神戸はスタッフに広島出身者を抱えていた。

大分トリニータや愛媛FCは、創設時に元広島総監督の今西和男がアドバイザーとして参加したこともあり、それぞれのクラブが成熟するまで、スタッフの派遣・若手選手のレンタル移籍・戦力外になった選手の斡旋などを精力的に行っていた。<ref name="HIHYO0612" />

2008年、中国・四国地方のJリーグクラブで中国・四国Jクラブ情報懇談会を結成。定期的に集まり、おのおのクラブ運営の問題解決にむけ意見交換を行っている。

他競技交流

広島県内を拠点として活躍する8競技9団体でトップス広島(異競技間交流ネットワーク)を結成、相互競技応援や若年層向けにスポーツ教室の開催、自治体が主催するスポーツによる地域活性化事業に参加するなどしている。

それとは別に2競技1文化団体によるP3 HIROSHIMA(広島三大プロ共同体)という地域活性化プロジェクトを開始、家族向けに夏休み期間中各団体活動を体験する事業を行っている。

サンフレッチェ劇場<ref>「サンフレッチェ劇場」によって渋滞解消?(J's GOAL)</ref>

ホームである広島ビッグアーチにおいて試合で勝利後、選手がトラメガ片手にサポーター席の前で選手自身が用意した扮装等パフォーマンスを行っている。

自チームサポーターに向けてパフォーマンスを行っていた中山雅史(ジュビロ磐田)や岡山一成(当時柏レイソル)に憧れた柏木陽介槙野智章が、2007年にホームゲームで勝利するとサポーター席の前にやってきてパフォーマンスを行っていたのが始まり。当初は2人の名前を取って「カシマキ劇場」と呼ばれていた。翌2008年、ここに森脇良太が加わり、現在の名前となった。

上記の3人のみならず、他の選手もゲストとして参加している。ちなみに、試合後の渋滞が緩和されるとして「クラブ公認」されており、公式ホームページにこの様子の動画が公開されている。

所属

フロント

トップチーム

Template:Main2

下部組織

Template:Main2

ユニフォーム

Template:ユニフォームの色

チームカラー

紫色:色決定経緯については上記エピソード・アラカルト内の「チーム名」欄を参照

ユニフォームスポンサー

国内公式戦用<ref name="SANFRESPONSOR" />
箇所スポンサー名表記掲出
開始年
備考
エディオンWESTDeODEO1997年-2003年のみ「YourVoice」
背中マツダMAZDA2010年-1992年-1994年までは袖、
1995年-1996年は胸
(表記は共に「mazda」)
カルビーCalbee1999年-
パンツエディオンエディオン2003年、
2009年-
2003年のみ「DeODEO」
ACL用<ref name="SANFRESPONSOR" />
箇所スポンサー名表記掲出年備考
マツダMAZDA2010年
練習着<ref name="SANFRESPONSOR" />
箇所スポンサー名表記備考
マツダMAZDA
背中ミズノMIZUNO
左袖広島銀行広島銀行クロスシャツ、ウインドブレーカー
右袖中国電力中国電力同上
左袖中電工中電工プラクティスシャツ
パンツ産興Tj Hiroshima
下部組織
スポンサー名表記備考
ユースマツダMAZDA背中
スクールフレスタFRESTA主に背中

歴代スポンサー年表

年度背中パンツサプライヤー配色遍歴(1st、2nd)
1992年-mazda--Mizuno紫・白・紫、白・紫・白
1993年FordmazdaJUKEN-Mizuno紫・白・紫、白・紫・白
1994年FordmazdaJUKEN-Mizuno紫・白・紫、白・紫・白
1995年mazda-JUKEN-Mizuno紫・白・紫、白・紫・白
1996年mazda-JUKEN-Mizuno紫・紫・紫、白・白・白
1997年DeODEO-JUKEN-Mizuno紫・紫・紫、白・白・白
1998年DeODEO-JUKEN-Mizuno紫・紫・紫、白・白・白
1999年DeODEOCalbeeJUKEN-Mizuno紫・紫・紫、白・白・白
2000年DeODEOCalbeeJUKEN-Mizuno紫・紫・紫、白・白・白
2001年DeODEOCalbeeJUKEN-Mizuno紫・紫・紫、白・白・白
2002年DeODEOCalbeeJUKEN-Mizuno紫・紫・紫、白・白・白
2003年YourVoiceCalbeeLifeCARDDeODEOMizuno紫・白・紫、白・紫・白
2004年DeODEOCalbeeLifeCARD-Mizuno紫・白・紫、白・紫・白
2005年DeODEOCalbeeLifeCARDアーバンコーポレイションMizuno紫・紫・紫、白・紫・白
2006年DeODEOCalbeeLifeCARDアーバンコーポレイションMizuno紫・紫・紫、白・紫・白
2007年DeODEOCalbeeLifeCARDアーバンコーポレイションMizuno紫・紫・紫、白・白・白
2008年DeODEOCalbeeLifeCARDアーバンコーポレイションMizuno紫・紫・紫、白・白・白
2009年DeODEOCalbeeLifeCARDエディオンMizuno紫・紫・紫、白・白・白
2010年DeODEO/MAZDACalbeeMAZDAエディオンMizuno紫・紫・紫、白・白・白
  • 広島市(または広島県)に本社を置く企業、もしくは広島が発祥の企業が協賛する傾向がある。
  • 現在のメインスポンサーはエディオングループ。YourVoiceとは、当時存在していたエディオングループのオリジナルブランド。
  • 当初からずっとフォードグループのマツダがユニフォームスポンサーに入っている。
    • 1993年と1994年のナビスコカップでは胸ロゴからFordが外れチームロゴに、天皇杯は1992年と同じだった。
    • 1997年デオデオ(現エディオンWEST)経営参加以降は、練習用の胸およびユースのスポンサーとなっている。ちなみにこの際、公式戦用胸スポンサーと同額で契約している<ref>Template:Cite web</ref>。
    • 2010年公式戦背中スポンサーに復活。また同年のACL用の胸スポンサーになった。
  • 最近は練習用スポンサーのほとんどを中国電力グループが占めている。
  • Jリーグ発足時、オリジナル10のユニフォームサプライヤーはミズノの一括契約であったが、その中で現在もミズノと契約しているのは広島だけである。

スタジアム

ホームスタジアム推移

現在、Jリーグ主催公式戦はすべて広島ビッグアーチで行われている。

  • 1992年 - 1994年:広島スタジアム
    • 当初からビッグアーチと併用していたが、1993年までの通年と1994年ニコスシリーズ(第2ステージ)はアジア大会に備えた芝生保護、開催準備などの観点で試合数を制限していた。・
    • 1995年ぐらいまで、びんご竹ヶ端博多の森大分市陸愛媛鳥取バードでもホームゲームを開催していた。
  • 1994年 - 現在 広島ビッグアーチ(実公式な本拠地移転の届出は1996年)
    • 1994年から2003年まで広島スタジアムと併用。年によって区々(1997年はリーグ戦・カップ戦すべてビッグアーチ、2003年はリーグ戦両所ちょうど半分ずつ、など)。
      • 1998年1stステージは広島ビッグアーチの施設・ピッチ改修のため、広島スタジアムをホームに。
    • 2004年から2006年までリーグ戦は広島ビッグアーチ、カップ戦は広島スタジアム。
    • 2007年以降、リーグ戦・カップ戦すべて広島ビッグアーチ。

かつて行われていたJサテライトリーグでは、1997年ごろまでマツダ鯛尾グラウンドや広域第一などで行われ、吉田サッカー公園ができて以降は吉田、年に1試合のみ竹ヶ端で開催されていた。

専用スタジアム構想

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練習場・キャンプ地

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練習場

現在、主に使用されるのは下記の3つ。

また、過去には下記の場所で練習していたこともある<ref name="TYUGOKU971103">Template:Cite web</ref>。現在も吉田およびビッグアーチともに積雪で閉鎖された場合のみ使用されることがある。

キャンプ
  • 現在のキャンプ日程は、まず広島で1週間ほど練習を行い、その間集合写真撮影や清神社にて必勝祈願を行う。その後一次キャンプを海外で、二次キャンプを宮崎・シーガイアで行なう。
  • 国内キャンプは、地元広島のほか、過去には大分県淡路島筑波大学(ともに冬季)、北海道松江市(ともに夏季)などで行われている。
  • 海外キャンプは監督の意向で決まることが多い(括弧内は行なった監督)。過去には東欧北欧(バクスター)、浦項スティーラース練習場(ヤンセン)、アデレード(トムソン)、グアム(小野剛)、アンタルヤ(ペトロヴィッチ)で行われている。
  • 珍しい練習として、2003年と2004年の春キャンプにて「野宿」が行われた。これは、ASE(Action Socialization Experience:社会性を育成する実体験・野外活動)によるトレーニングの一部で、たった一人で限られた食物とテントを持ち山の中で過ごし、孤独な時間の中で自分の心や人間関係を見つめなおすというもの。選手のみならず監督・コーチスタッフも行い、テント数が限られていたため半数近くがブルーシートで寝泊りしている。<ref>淡路島でのトレーニング</ref><ref>サンフレッチェ広島キャンプでホイ(開運!?スポよた堂))</ref>

メディアなど

紙媒体
テレビ
ラジオ
応援歌など
交通

関連項目

注釈

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出典

クラブ公式発表、紫熊倶楽部および季刊紙「ASSIST」、中国新聞を優先するソースとする。2次ソースとしてサンフレッチェ広島記録集SANFRECCE Diaryもあわせて参照。 Template:Reflist

外部リンク

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